セシルは力任せに石の壁に左の拳を叩きつけた。鈍い音が響く。
当然だが、痛い。だが、本当に痛いのは……――。
「……大丈夫か、セシル」
その声で、セシルは我に返った。
「カイン。……すまない、君まで」
幼馴染であり親友でありライバルでもある竜騎士団の部隊長カイン=ハイウィンド。彼が、幻獣討伐の任を下されたのは、どう考えても自分を庇ったせいに他ならない。俯くセシルの肩を、カインはぽんと軽く叩く。
「何。大した事はない。任務を終えれば陛下も許してくださるさ」
軽い口調で、一つ年上の親友はあっさりとそう言う。
こんなことは何でもない、気にするな。
そんなカインの本心が見えた。
「それよりもセシル。お前、ミシディアから戻ったばかりだろう?明日の出立の準備は俺に任せて、今日はもう休め」
「……ああ、そうさせてもらおうかな。……本当に、すまない」
項垂れたままのセシルの背を、カインはびしりと叩く。甲冑同士のぶつかり合う音は結構激しい音がして、セシルは思わずびくりと背筋を伸ばした。
「何だ。お前がその調子じゃ、幻獣とやらを仕留めるのは俺の役目になりそうだな。……まったく、張り合いがない」
兜の隙間から見えるカインの口元が不敵な笑みを刻むと、セシルはようやく口元に笑みを浮かべた。
セシルが苦しい時、この親友は決して慰めの言葉は口にしない。代わりに、こうやってけしかけることで、セシルの心を引き上げてくれる。……そういう男だ。
「僕も負けはしない!」
「フッ、その意気だ。……じゃあ、明日な」
「ああ。……ありがとう、カイン」
セシルの言葉に、既に背を向けていたカインは、左手を軽く振って応じ、そのまま姿を消した。
「……ふぅ」
途端に疲れを感じ、セシルは息をついた。今日一日がかなりハードだったことは事実だ。精神的にも肉体的にも、疲れはピークに達している。
カインの忠告に従い、休もう。明日からは、また厳しい任務が待っているのだ。万全の状態で挑まなければならない。
セシルは自室に向かって歩き出した。セシルの部屋はバロン城の西側の塔――通称・左の塔――の最上階にある。
今までのこと、これからのことを考えながら歩いていたら、背後から声をかけられた。
「……セシル!」
耳に心地よい、柔らかな女性の声。セシルはゆっくりと振り返り、声の主の名を呼んだ。
「……ローザ」
ローザ=ファレル。竜騎士の父に白魔道士の母を持つ、貴族の娘だ。母と同じく白魔道士の道を歩む彼女だが、その弓の腕は父の名に恥じぬほどのものだという。
「良かったわ、戻っていたのね」
緩やかな金の長い髪を靡かせ、バロン国一と謳われる美貌に花のような笑顔を咲かせたローザは、セシルに歩み寄ろうとして、ふいに足を止めた。
一瞬、足を止めたのはセシルの様子がおかしいと感づいたからだろうか。杏色の瞳が、セシルを案じるような色を宿した。
「驚いたわ……。いきなりのミシディア行きなんですもの。怪我は、ない?」
「無抵抗の魔道士相手に怪我などしようがないさ」
自嘲気味にそう返してから、はっと我に返る。ローザの表情が曇っていた。
「……すまない。疲れているみたいだ」
吐き出すようにそう言うと、セシルはローザに背を向けた。ローザと正面を向いて話すことなど出来なかった。今の自分に彼女は眩しい……眩しすぎる存在だ。
「セシル!」
何も言わずに去ろうとしたセシルを、ローザの澄んだ声が呼び止める。
「……少し、話がしたいの。……今夜、あなたの部屋に行くわ」
「…………ああ」
セシルはローザの視線を背中に感じながらも、振り返ることなくその場を後にした。
「セシル!セシル!!」
左の塔に入る直前に、セシルはやたらと元気の良い声に呼び止められた。
「シド!!」
セシルのもう一人の父といっても過言ではない人物が、物凄い勢いで駆けて来るのを認めて、セシルは目を見開く。
「セシル!戻っとったか!」
シド=ポレンティーナ。古い書物から飛空艇の原理を解明し、バロンに飛空艇を普及させた天才技師だ。
「わしの可愛い飛空艇たちは無事かーーーっ!!」
シドの叫びに、セシルは思わず脱力した。
「……シド。それちょっとひどい……。僕より飛空艇の心配?」
「阿呆!お前がそこらの連中にやられるもんかい!無事に決まっとる!だが、わしの可愛い飛空艇は繊細なんじゃとゆーのに、お前の部下たちは扱いが荒っぽくていかん!……どうした、セシル?浮かない顔しとるな」
ぶちぶちと文句を述べていたと思えば、いきなり人の心配をしだすのだから、本当に忙しない人だ。
セシルは、微かに苦笑を洩らした。
「シド。……実は」
セシルが今までの出来事を掻い摘んで話すと、シドは苦虫を数十匹噛んだような顔をした。
「お前以上に『赤き翼』を指揮できる者が今のバロンにおるものか1全く……。最近の陛下のお考えはわしにも分からん。……この前もわしに新型の飛空艇を造れと言われたんじゃが……。わしは、飛空艇を人殺しの道具にしたくはない」
「……シド」
何も言えなかった。シドは人々の幸せを祈って飛空艇を造っているのに、それを戦争の道具として使っているのは、自分なのだ。
「……ああ、セシル。そんな顔をするんじゃない。わしは、別にお前のことを責めておるわけではない。……最近のこの国のあり方が、わしには分からん」
「……シド」
「……む、こうしちゃおれん。わしはそろそろ家に帰る!もう三日も帰ってなくての、娘がうるさくて仕方ないんじゃ!」
その言い草に、セシルは思わず吹き出していた。
シドは、バロンの城下町に娘と二人で暮らしている。若いうちに奥さんを亡くし、それから二人で支え合って生きてきたのだ。今の言動だって、照れ隠しのようなものだ。
「じゃあな!セシル!!ミストにも気をつけて行って来るんじゃぞ!ローザを泣かしたらわしが許さんからなぁぁぁぁ……!」
駆け出しながらの言葉は、最後の方が変なフェードアウトの仕方をしていた。
「うーん……。相変わらず凄いなぁ、シドは……」
呆然とした自分の呟きに、思わず笑ってしまう。
暗かった心が、少しだけ晴れた気がした。