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    蒼穹の狭間で  6.それぞれの決意(5)

     慧の言葉に、春蘭は目を見開いた。
     そうして、ゆっくりと目を細める。この人はすごい、と思う。
     春蘭が、いや天界のほとんどの人々が当然のように受け入れていたことに疑問を抱いて。そして、春蘭が思っていてもなかなか口にできないこと、言葉として発する。
     それは、とても勇気が必要なことに思えた。少なくとも、自分には出来ない。
    「……それに」
    「……それに?」
     春蘭がそう言って促すと、慧は苦笑を零す。
    「雅は、これまで平和な世界で生きてきたんだろ」
     その言葉に、春蘭は視線を落として眠る雅を見つめた。
     旅の合間に雅から地界の話を聞く機会はあったが、正直に言って地界がどんな世界なのか、春蘭には分からない。天界よりも広く、様々な国が存在し、その国によっては言葉も文化も、生活の豊かさも違うらしいとの話だが、それが春蘭には想像がつかない。
     異なる世界の住人である春蘭達と雅がこうして言葉を交わすことが出来るのに、同じ世界に住んでいる者同士が違う言語をしゃべっているなんて、雅が嘘をついているとは思わないけれど、そんなことあるのだろうかと思ってしまう。
     たくさんの国があってたくさんの文化があるというなら、その国によって事情は異なるのだろう。争いのある国だってきっとあるはず。それでも、雅の生きている国は戦争のない平和な場所に違いない。
     それは雅を見ていれば、分かる。
     彼女がまとう空気は、慧にも春蘭にも縁遠いものだ。
     縁遠いどころか、この天界ではきっと一生手の届かないもの。けれど、憧れてやまないもの。
    「……手を、汚させたくない」
     静かな声に、春蘭ははっとして顔を上げた。
    「陰羅は、暗奈や黒李とは違う。人ではないけれど……生きている者だ」
    「あ……!」
     陰羅を倒すと決めた雅。その意味に気付いて春蘭は小さく声を上げ、それから息を呑んだ。倒すということは、殺すことと同義だ。
     慧も春蘭も、暗奈との戦闘で暗奈を殺してしまったと酷く取り乱した雅を見ている。結局、暗奈の正体は陰羅の作り出した式だったわけだが、だからといって雅が心に傷を負った事実も、殺してしまったことに恐怖した事実も消えるわけではない。
     陰羅を倒すという決断を下すことが雅にとってどれほど辛い決断だったのだろう。そのことに思い至って、春蘭は視線を落とした。
    「そう、ですね……」
     雅は自分自身で陰羅を倒すと決めたのだからなどと言いそうだが、だからと言って傷つかない訳ではない。
     取り乱した雅の姿を思い出す。
     それに、雅はこの世界の住人ではないのだ。もし、陰羅を手にかけたら。雅はその重責を負って、地界で生きていかなければならなくなる。魔法も魔物もいない地界では雅の話など荒唐無稽だろう。ならば、雅も誰かに語ることもないだろうから。
    「私も、そう思います。この世界のせいで……雅ちゃんの手を汚させてはいけない」
     伝説を否定して、光鈴抜きで陰羅に挑もうとする自分は、巫女としては失格かもしれない。そう思いながらも春蘭はそう言ってまっすぐに慧を見て口を開く。
    「慧君。……私も、戦います。神の力は私にはないけれど、それでも精一杯。……だから、陰羅を倒しましょう。……私達の手で」
     そうして、雅を無事に地界に帰すのだ。
     春蘭の言葉に、慧は安堵したような複雑な笑みを浮かべた。
    「何か……悪いな。巻き込んで」
    「いいえ。……気付けて、よかったです。ありがとうございます、慧君」
     春蘭が頭を下げて礼を述べると、慧の苦笑が深まった気配がした。春蘭は顔を上げると、目の前にある扉を見つめる。
    「……行きましょう、慧君。伝説を、終わらせに」
    「……ああ!」
     お互いに強く頷きあって。慧は古ぼけた木の扉の取っ手に手をかけたのだった。

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