最初に魔導船の外に出たのは、エッジだった。
地面を踏みしめて、軽く眉をしかめると小さく首を傾げる。自分達がいた大地よりも空気が若干薄いような気がするし、身体を動かした感じも変だ。どうも、ふわふわする。二回ほど軽く飛び跳ねてみて、違和感は確信に変わる。ローザのレビテトがかかった感じに似てなくもないが、身体は浮きそうで浮かない。
そして何よりも気になるのは、そこかしこから魔物の気配がすることだ。その気配は地上で感じるものよりも格段に濃厚で、月の魔物が強力であることを物語っている。
しかも、こちらは今、カインを欠いたため四人態勢なのだ。その分、戦闘において一人一人の負担が増える。今まで以上に気を引き締めなければならないだろう。
「……ちょっと感覚が違う、かな?」
エッジの横に並んで立ったセシルが眉をしかめながら呟いた。ローザもまた違和感を感じているらしく、形の良い眉をきゅっと寄せている。
ふとエッジが後ろを振り返ると、リディアが呆然と立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは草木一つなく、荒涼とした景色。そして異質な環境と、強力な魔物の気配。感受性の強い召喚士の少女が萎縮してしまうのも、無理はないだろう。
「なぁにやってんだ?」
おどけたような口調で言うと、リディアがはっと我に返った。
「な、何でもない! ちょっとびっくりしただけっ!」
エッジにからかわれると思ったのか、むきになってそう主張するリディアの表情は、生気にあふれて可愛らしい。そんな想いとは裏腹に、エッジはからかうように声をかける。
「とか言っちゃって、実は怖いんじゃね?」
リディアがむっとして頬を膨らませる。こういう反応を見せる所は、まだまだ子どもだ。
「こ、怖くないもん!」
「よーし、言ったな? 言霊だぜ?」
そう言うとリディアがはっとしたようにエッジを見つめてきた。魔導船から船外に出るには三段ほどステップを降りる必要がある。リディアはまだ船内にいるため、その視線はエッジよりも高い。
「……うん! 怖くないよ」
そう言ってリディアがふわりと笑った。そんなリディアに、エッジは手を伸ばす。
「……なぁに?」
「いや、たまにはエスコートもいいかと思って。……では、参りましょうか? 幻界のお姫様」
澄ましたエッジの態度がおかしかったのか、リディアは小さく吹きだす。
「何よ、それぇ〜」
そう言いながらリディアは手を伸ばし、エッジの右手に重ねた。
「いいじゃん。王子らしいっしょ?」
「そういえば、エッジって王子様だったよね。忘れてた」
「えっ!? ひでぇっ」
そんな会話の間に、リディアはあっさりと月の大地を踏みしめる。ほっと、リディアが小さく息をついた。
「……ありがと」
リディアが小さく礼を言う。エッジは左手でリディアの頭をぽんぽんと叩く。
右手にリディアの体温を感じながら、この体温を失いたくないと、心から思う。
簡単に命を捨てるつもりはない。目の前の少女が泣くから。それでも、いざという時は。この命に換えても、リディアだけは。
エッジは一瞬右手に力を込めると、ぱっとリディアの手を離し、にかっと笑った。
「さ、行こうぜ!」
離れていったエッジの右手を何となく視線で追って。リディアは先ほどまでエッジと繋いでいた手を見下ろした。
何故か寂しく思ったけれど、自分でも何でそう思ったのか分からない。リディアは不思議そうな表情で、瞬く。
すたすたと歩いて行ったエッジは、セシルとローザに明るく声をかけている。
エッジは凄いとリディアは思う。仲間になって一番日が浅いのに、このパーティーに欠かせない存在になっている。
戦力的にも、精神的にも。普段はふざけてばかりで子どもみたいなのに、大切なときには大人になって、皆を支えてくれるのだ。
さっきみたいに。
この大地に降り立とうとした時、本当は怖かったのだ。荒廃した風景、異様な空気、色濃い魔物の気配。全てに萎縮し、飲まれてしまっていた。足が動かなかった。
だからエッジに声をかけられた時、恥ずかしくなった。リディア以外の仲間は平気そうなのに、一人だけ怯えているのが子どもみたいで、虚勢を張った。
そんなリディアの心情は、きっとエッジに見透かされていたのだろう。からかうような口調が悔しかった。
けれど、言霊と言われた瞬間、はっとした。言霊。言葉に宿る、力。怖くないと言えば、怖くなくなると。気をしっかり持てと。エッジの言葉の意味に気付いて、リディアは泣きそうになった。
何で、この人はいつも、タイミングよく。
伸ばされたエッジの手を取れば、その大きさと暖かさに、リディアは安堵した。
何だかそれが気恥ずかしい気がして小さな声で礼を言うと、気にするなというようにリディアの頭を叩いたエッジは、それから空を見上げた。その瞳が悲しい決意を帯びたような気がして。
一度、力の込められたエッジの手。その手を離したくないと思った。この体温を、この声を、この瞳を、失いたくない。
仲間が、クリスタルの城に向って歩き出す。リディアは、少し前を歩くエッジの背を見つめ、瞳を閉じた。
何度も無力さを感じた、自分自身。それでも、あの背中を守るだけの力はあるはずだ。
「……力を貸してね……。幻獣達……」
もう二度と。あんな思いはしたくないから。
そう強く思ったリディアは、ふと視線を上げる。今、声を聞いたような気がした。仲間の誰のものでもない声。リディアの強い願いに応じるような声が。
それは、幻獣が呼びかける感覚によく似ていた。
「おーい、リディア! 置いてっちまうぞ!」
「待ってよ〜!」
エッジの声に、リディアは気のせいかと首を傾げつつ、走り出したのだった。