TOP

Memoria〜あの日を覚えていますか〜

 けほけほと小さく咳込んで、ティオはぼんやりと窓の外を見つめた。
 先ほどからずっと、楽しそうに騒ぐ声が聞こえてくる。おそらくこの屋敷の近くの広場で子どもたちが遊んでいるのだろう。
 僕も一緒に遊びたいなぁと思うけれど、それは叶わぬ願いなのだということはティオ自身が一番よく分かっていることだ。
 丈夫でないこの身体は少し遠出しただけでも体調を崩す。外で遊んだりなどしたら三日は高熱に悩まされることだろう。
 そんなことになればまた両親や兄達、そして使用人にも心配や迷惑をかけてしまう。それを気にしないほど、ティオはもう子どもではない。
 けれど、外への憧れを捨てきれるほど大人にもなれなくて。ティオは外への羨望を秘めながら、毎日ベッドの上からぼんやりと外を眺めていた。
 自分は一生元気になれずにこのままなんじゃないだろうか。何もしていないのに体調を崩した時など、そんな風に考えることもあった。
 そんな、ある日のことだ。
「お加減はいかがですか? ティオぼっちゃま」
 そう呼びかけてきたのは、ここ最近ティオに薬を調合してくれる薬師の老婦人だ。この人の作る薬は魔法のように効くんだよとの父親の言葉の通り、この人の調合した薬を飲んだ後は、いつも調子がいい。
 何でも古くからの父親の知り合いで、父親と母親が結婚するきっかけを作った人らしい。しばらくこの土地を離れていたのだがここ最近でこのあたりに戻ってきたとのことだ。
「うん。……でも、ここのところ、すごく調子がいいよ。起きあがってられる時間も増えたんだ」
 そう言って笑うと、それはようございましたと老婦人が笑う。その時になって初めて、老婦人の側に小さな女の子が寄り添っていることに気づいた。
 視線が合うと女の子は慌てたように老婦人の後ろに隠れてしまった。
「……誰?」
「ああ、わたしの孫娘ですよ。……これ、ウェルチ。挨拶なさい。ほら、隠れてないで。恥ずかしいのかい?」
 ウェルチと呼ばれた女の子はなかなか老婦人の背中に隠れたままでてこようとしない。けれど、こちらのことは気になるらしく、ちらちらと顔だけを出しては様子を伺っている。
 それがなんだか可愛らしくて、ティオは小さく笑った。
「こんにちは、ぼくはティオ。名前を教えて?」
 そう言うと、少女はようやくかくれんぼをやめて、ティオの前にやってきた。
「わたし、ウェルチ。はじめまして、えっと……ぼっちゃま?」
 祖母がそう呼んでるから真似をしただけなのだろうけれど、自分より年下の少女にそんな風に呼ばれるとは思わなくて、ティオは思わずぽかんとした。
 老婦人は慌ててウェルチをたしなめているが、ウェルチはきょとんと不思議そうな顔をしている。
 ティオは小さく笑うと、小首を傾げているウェルチの頭を撫でた。
「ぼっちゃまじゃなくて、名前で呼んでほしいなぁ」
「えっと……じゃあ、ティオくん?」
 ティオくん、なんて初めて呼ばれたかもしれない。何だか嬉しい響きに自然とティオの頬が綻ぶ。
 それを見た老婦人は穏やかに笑った。
「わたしは薬を調合して参ります。ウェルチ、ぼっちゃまと一緒にここで待っておいで」
 その言葉にウェルチはこくんと頷いた。
「分かった。まってるね」
 そう言って祖母の背中を見送るウェルチの瞳はどこか不安そうで、ティオは首を傾げた。
「……どうしたの?」
「うん……おばあちゃんは、ちゃんと帰ってくるよね。大丈夫だよね」
 その声が泣きそうに聞こえて、ティオはウェルチの顔を覗きこんだ。
「あのね、パパとママがずっと遠くに行っちゃって、帰ってこないの」
「ずっと遠く?」
「うん。お空の国。……だから、会えないの。ずっと」
 その回答にティオは小さく息を呑んだ。つまり、この子の両親は――……。
 そしてこの子は幼い物言いながらも、両親が他界した現実をきちんと理解しているのだとその表情を見て分かった。
「……大丈夫。おばあちゃんは帰ってくるよ。僕のお薬を作りに行っただけだから」
 そう言ってウェルチの頭を撫でると、ウェルチはうんと頷いたあと、首を傾げた。
「ティオくん、病気なの?」
 そう言ってウェルチはベッドの側まで歩み寄ると、ティオの額に自分の額をくっつけた。
「ウェ、ウェルチ?」
「お熱ない? 大丈夫?」
「ね、熱は、今は大丈夫。熱くないでしょ?」
 突然のウェルチの行動に驚きつつ、そう言うとウェルチはうんと頷いた。それに笑ってみせようとした、瞬間。
「――っ!」
 止まらない咳が、ティオを襲う。
「ティオくん!?」
 丈夫でないティオの身体。その中でも特に弱い気管支のせいで、時々このように咳込み続けることになってしまうのだ。
 あまりの苦しさに視界の隅が滲む。その時、背中に暖かい何かが添えられた。
「……大丈夫。大丈夫よ。おばあちゃんがお薬を持ってくるからね」
 その暖かさは、ウェルチの小さな手だった。柔らかな暖かさが、ティオの背中を何度もさする。
「ごめ、ありがと……」
 そう言いつつもなかなか咳が収まらない。心配そうな顔でティオを覗き込んだウェルチはふと周囲を見回した。
「……ティオくん。あそこのポット、お湯入ってる?」
「え? あ、うん……。喉、乾いたの? でも、持ってきてもらったの、しばらく前だから、新しいの、を……」
「違うのー」
 息も切れ切れに言うティオに、ウェルチは首を横に振った。そしてとてとてとポットに近寄ると、側にあったカップにお湯を注いだ。ややぬるめのお湯がカップの中で湯気をたてる。
「えっと……咳には、ユーカリ」
 そう言いながら肩から提げていたポシェットの中から小さな瓶を取り出して中身を数滴、カップの中に垂らす。
「……ウェルチ?」
「飲んじゃだめよ? ゆっくりと、えーっと……けむりを吸い込んでね」
 そう言って差し出されたカップからはミント系のスッとした香りが立ち上っている。その蒸気を言われた通りゆっくりと吸い込んだ。そうしてしばらく呼吸を意識していると、咳が楽になっていることに気づく。
「ウェルチ、すごいね」
 完全に収まったわけではないが、しゃべることが苦なほどではない。ティオが感心してそう言うと、ウェルチはてへへと照れ笑いを浮かべた。
「おばあちゃんが教えてくれたのー!」
 そう言いつつ、カップをティオに渡すと、ポシェットの中をがさがさと漁って、小さな袋を渡した。
「ティオくんにこれもあげるね」
「これはなに?」
「お茶! ハーブティーだよ。タイムのハーブティー。咳に効くって言ってた!」
「ありがとう。……これもおばあちゃんが教えてくれたの?」
 ティオの問いかけに、ウェルチは首を横に振る。
「これはね。パパとママ」
「そ、そっか……」
 返事に窮するティオに、ウェルチはふんわりと笑いかける。
「これからね、おばあちゃんにお薬のこととかいっぱい教わるの。お茶のこともたくさんお勉強する。そうしたら、きっとティオくん、すぐに元気になるよ」
 春のひだまりのようなその笑顔は、暖かさと折れないしなやかさを持っていた。
 両親を失って祖母に引き取られ、寂しく思う時もあるだろう。それなのに、こんな風に笑って未来を見ている少女をすごいと思った。同時にベッドの上でぼんやりと悲観していただけの自分が何だか恥ずかしい。
「うん、ありがとう」
「そうしたら、お外でも遊べるね。一緒に遊ぼうねっ」
 ただぼんやりと一日を過ごして来た少年に少女は明るい未来と暖かな優しさ、そしてしなやかな強さをくれた。
 思えばこの出会いが、ティオの仄かな想いの始まりだったのだ。

 幼い頃は自分がベッドの上でウェルチが看病してくれたんだよなぁと思ったら、つい初めて会ったあの日を思い出してしまった。
「……ウェルチは、覚えてるかな」
 熱のせいで赤い顔をしたウェルチの額に、冷やしたタオルを乗せたティオは小さく呟く。
 お酒の勢いで幼い頃からの想いを告げることになるのは、また別のお話。

 

TOP

Copyright (C) 2012-2012 aihara sora, All rights reserved.
inserted by FC2 system