記憶のうた 第八章:彼女の選択(7)
小鳥のさえずりが穏やかに響き、爽やかな風がウィルの頬を撫でる。目覚めの場面としてはとても心地のよい場面なのだろう。けれど。
「……気持ち悪……」
正直に言って、目覚めは最悪だった。
そもそも転送魔術は、遠方に物を転送するための魔術である。生物を転送する用には出来ていない。そんな術を生物に対して使用した場合、どんな影響を及ぼすのか分からなかったわけだが。
脳が揺らされるような感覚と吐き気に、目を開ける気すら起きず、ウィルは目を閉じたまま息をつく。
下手をしたら、無事では済まない可能性もあったのだから、この程度で済んでよかったと思うべきなのだろう。けれど、正直なところ転送魔術なんて二度とごめんだ。
はっきりしない頭でそんなことを考えながら、ウィルはゆっくりと瞼を持ち上げ――硬直した。
自分の腕の中で目を閉じているソフィアを見下ろす。
何だ、この状況は。そう自問して、ようやく頭が回転を始め、転送魔術が発動する直前の出来事を思い出した。
はっと息を呑み、ソフィアの肩の上にあった右手を動かして首筋に触れる。確かに感じる力強い脈動に小さく安堵の息をつき、それからゆっくりと周囲を見回した。
すぐ近くに、しっかりとぽちを抱きかかえたリアや、そのリアを守ろうとしたのか手をリアの肩にかけたティアが倒れている。そして、ティアを守ろうとしたのかそれとも落ちどころが悪かったのか、リアとティアに押しつぶされているリュカの姿が見えた。三人とも肩が動いていたり、呻き声が聞こえたりするから、とりあえずは無事なのだろう。
そして――。
「いやーん。御大! その右手の位置が何かエロい! もういっそ何かしちゃえ!」
「するかっ! 起き抜けに何を腐った冗談言ってやがるっ!」
反射的に突っ込んでから、呆れた表情でふざけた発言をした声の主を見た。
「おっはよーん、御大。一番早起きさんだったねぇ」
「……ユート。何が起こった?」
そっとソフィアを地面に横たえて、ウィルは改めて周囲を見回した。視界いっぱいの森は、先程までいた場所ではなく、シャノン達の姿はもちろんない。エアリアルからの脱出という目標は達成したように思えた。
「ん〜。転送魔術は成功したよ。俺様魔力診断だと、たぶんガジェストールのどこか? けど、やっぱ負担は大きかったみたいだねぇ。術者の俺様と体力消耗してない御大以外はみんなまだ気を失っちゃってるみたい」
へらりとそう言うユートに、ウィルは一瞬だけそっぽを向いた。
確かに自分が一番役立たずだった自覚はあるから、何の反論も出来ないのだけれど。
「まあ、でも御大がいなかったらお姫は戻ってこなかったと思うけどねぇ」
「は?」
にやにやとからかうような笑みを浮かべるユートを、ウィルは訝しげな目で見た。
ユートがソフィアに魔術を使っていた間、ソフィアの心にどのような動きがあったかなど、ウィルに知る由はない。けれど、心を封じる古代術を打ち破ったのはソフィアの意思であるはずだ。それは、ソフィアの力だ。ただ突っ立って名前を呼ぶことしか出来なかった自分に、何が出来たとも思えないのだが。
ただ強く、無力感を抱いた。それだけだ。
ソフィアに視線を落として息をつくウィルを見つめていたユートは、やれやれと肩を竦めた。
「まあ、今はいいや。……んで、他に聞きたいこと、あるんでない?」
「そうだな。……サイラスが最後にソフィアにかけた魔術。……何か知らないか?」
「あれ? 御大なら予想がついてるんでないの? 概ね、そのとおりだと思うけど」
その言葉に、ウィルは眉をしかめた。それはあまり嬉しいことではない。
「……何とか、ならないのか?」
「普通には難しいねぇ。何てったって古代術だし。心当たりは……血を使った呪い、とか?」
さらりととんでもない事を言ってのけたユートを追求しようと、ウィルが口を開きかけたのと。
「うう〜ん……。ぐらぐらするぅ……」
リアが呻き声をあげたのは、同時だった。その声にティアも目を開け、リアの無事を確認する。
「大丈夫か? リア」
「う、うん。ティアちゃんも平気? ……て、うわ!? リュカちゃん!? あたし達の下で潰れてるよぉっ!」
「……本当だ。大丈夫か、リュカ」
「……ぐええ……」
潰れた蛙のような悲鳴を上げるリュカの上から、リアとティアが慌てて動く。
「……すまない、リュカ」
「ごめんねー、リュカちゃん」
しゅんと肩を落とすリアと無表情ながらもすまなさそうにするティアに、起き上がったリュカはぶんぶんと両手を振った。
「あ、謝らないで、二人とも! 僕は平気だよ! 頑丈だし、鍛えてるし! 何より男だし! 二人に怪我がないならそれでいいし!」
「わぁっ! リュカちゃん、男前〜っ」
「むぅ〜」
復活したらしいぽちが高らかに鳴く。いつもと変わりないその様子に、ウィルは安堵の息を吐き、自分の横に視線を向けた。ソフィアの睫が小さく震える。
「……ソフィア?」
小さな呼びかけに応じるように、瞼がゆっくりと持ち上がり。焦点の合わない薄紫の瞳が周囲を彷徨う。しばらくして、生気が戻ってきた瞳がウィルを捉えて、ほっとしたような表情を浮かべた。
「……ウィル、さん……」
それから、ソフィアがゆっくりと身体を起こすのをその背に右手を添えて手伝うと、ソフィアは仄かに微笑んだ。
「……ここは……?」
「ガジェストール、らしい」
そう応じたウィルにそうですか、と小さく頷いたソフィアは、はっと小さく息を呑んだ。
「ウィルさん! 手!」
その言葉に、ようやく怪我をしていたことに思い至った。
持ち上げて見てみれば、血はまだ止まっておらず、そればかりかなかなかに激しく出血している。
痛みをそれほど感じないのは、既に痛覚が麻痺してしまっているのか、あの瞬間にアドレナリンが分泌されたせいなのか。
「な、治します……!」
そう言って伸ばされたソフィアの手を掴んで止めたのは、ユートだった。
「やめといたほうがいいよ、お姫。……命を縮めたくないならね」