記憶のうた 第八章:彼女の選択(4)
「ソフィア、行くぞ! ぼけっとしてんな!」
それは、彼女にとってのはじまりの言葉だった。
もし、そう告げたら。彼はどんな反応を示すのだろうか。
薄い膜がかかったかのように、世界が霞んでいる。それにはとっくに気付いていたけれど、それを何とかしようとは思わなかった。
ただ一度だけ。小さく呼ばれた名前に、大切な彼らの存在が閉ざされたはずの心を掠めた気はする。そして、何かを伝えたような気もするけれど、その時に感じた想いも願いも、何もかもが遠い。
白い世界で一人佇んでいると、自分自身も染められて、何もかもが真っ白になっていくかのようだ。感情も、想いも。己の存在すら。
自分以外の何も存在しないこの世界は、暗くなんてないのに、まるで闇の中にいるみたいだった。
けれど、それでも彼女は何も感じない。ただ、この世界にぼんやりと浸っていた。
何もない世界は、穏やかで平穏だ。変化がないということは、心を乱されるような事象は起こらないということ。辛いことも悲しいこともないということ。ただ、穏やかに時間だけが過ぎていく、そんな世界だ。
真白の闇が彼女を包む瞬間、大丈夫です、と男性の声で言われた気がする。
あなたは、何も見なくていい、何も感じなくていい。神とシャノン様の命令だけを聞いて、応じればいい。そうすれば悲しいことも辛いことも、悩むことも掟を破ることもないのだから、と。
その時、シャノンの命令が、彼女に届く。全力で攻撃をしろとの言葉に、彼女は何も考えずに呪文を紡ぎ、術を放った。
膜の外の世界が騒がしいような気はした。命令が下ったから何かは起こっているのだろう。けれど、それも今の彼女の気には止まらない。知っても何も感じないのだから、どうでもいいことだ。
けれどそこに、声が響く。
――……本当に? それが、お姫の本心?
声が反響して、若干聞き取りづらい。けれど、聞き覚えがあるような気がする声に、何も感じないはずの世界が、一瞬だけ揺れた。けれど、世界はすぐに穏やかな秩序を取り戻す。
――……お姫は、ずっとそこにいるつもり? まぁ、分からなくもないかなぁ。そこだったら、辛いことも悲しいことも嫌なことも何もないもんね? あ、昼寝してても怒られなさそうだよねぇ。
どこか飄々としたその声が、世界に響く。最初は聞き取りづらかった声が、次第に明瞭になっていく。
――……けどさぁ、それって楽しい? 嫌なことが一切ない世界って、幸せ?
落ち着きを取り戻したかに見えた世界が、再び震える。
――……昼寝し放題は魅力的だけど、でもやっぱ俺様は嫌だなぁ。だって、面白いこと一個もないじゃん。
世界の霞が微かに薄まり、膜の揺れが激しくなっていく。
――……何も感じないってことは、楽しいことも嬉しいことも全部捨てるってことだよ。……お姫に、それが出来る?
声はなおも穏やかに、だがどこか曖昧な雰囲気で語りかける。
――……大切な存在も、切り捨てられる? それとも、もう忘れちゃった? ……いつも、隣にいた人とか。
同時に、声が響いた。心を封じられる最後の最後まで彼女を引き止めた、声が。
『……っ! いつまで、そこで突っ立ってるつもりだ!? ソフィア! 行くぞ! ぼけっとしてんな!!』
それは、旅に出る時に彼が彼女にかけた言葉。彼にとっては何の意味もない言葉だったと思う。
けれど、この言葉は彼女にとっては大切な言葉だった。
記憶を封じられ、確固たるものを何一つ持っていなかった自分。けれど、彼が彼女の存在を認めて名前を呼んでくれた瞬間、彼女は己を手に入れたような気分になった。
何もかもを失ったのではないと、そう思えた。不安に押しつぶされそうでも、心が折れそうになっても、己を保つことができたのは、自分だけの力ではない。名を呼んで、自分を認めてくれる人がいたからだ。
そう告げたら、彼はどんな反応をするだろう。
大げさだな、と呆れたように苦笑するか、照れたようにそっぽを向くか。
でも彼女にとってその瞬間は、闇に仄かに灯る小さな光のように、暖かな記憶だ。
反射的に動いた唇が、名を呼んでくれた彼の名を刻む。地上に追放されてから、一番口にした言葉だからだろう。違和感なく紡がれた名が、世界に響く。
地上で、大切な人達に出会えた。その中でも、彼女にとって一番特別で大切な名前だ。
そして、いつも当たり前みたいに傍らにあった気配を探すが、誰もいなかった。
当然だ。自分は、この白い世界に一人なのだから。
けれど、それを自覚した瞬間。封じられたはずの感情がざわめく。
――……あー、良かった。忘れてはないみたいだねぇ。いっやぁ、愛の力って偉大だなぁ〜。あはは〜。
何故か気楽に、声がそんなことを言う。そしてどこか楽しむような声音で、声が告げた。
――……聞こえるでしょ?
『応えろ! ソフィア!!』
弱音を言うたび、受け入れてくれた声が。何度も光を与えてくれた声が、閉ざされた世界を強く揺さぶる。
反射的に、彼女は――ソフィアは返事をしていた。
彼の強い声に応じるかのように。それが声になって、外に響いたかどうかは分からないけれど。
世界を覆う膜にぴしりと亀裂が走り、そして。世界に色が蘇った。