記憶のうた 第一章:旅立ちの日に(4)
夜の帳が落ちかけた頃。
ウィルの運転するエアーバイクは、ガジェストールの国境の街・リンドに辿り着いていた。
「何だか、ふらふらです〜」
街に入ったためスピードを落としたウィルの耳に、後ろに座るソフィアの声が届いた。
森の中に止めたままだったエアーバイクの元に戻ったのが、正午近く。それから必要最低限の休憩以外はとらずに森の中を突破したのだ。
エアーバイクに慣れていない様子のソフィアは、さぞかし疲れたことだろう。
「今日中にガジェストールの国境を突破したいんだ。もうちょっと我慢しろ」
「はい〜。……でも、何でそんなに急ぐんです? リンド側には宿がない……って訳じゃあありませんよね?」
視界に立派なホテルが目に入る。もちろん、そんな訳はない。
「……あんま長居すると、兄上たちに城を出たことがばれるからなー」
ソフィアに聞こえないくらい小さな声で呟くと、案の定聞こえなかったらしい。
「すみません、何か言いました?」
「いや。朝の方が国境って混むんだよ。越えられるなら今日のうちに越えておいたほうがいい。お前は個人データの登録からしなきゃなんねーんだし」
「こ、こじんでーた?」
「あー、俺がやるから、気にすんな」
「す、すみません……」
そんな会話を交わすうちに、二人は国境に隣接する大きな建物に辿り着いた。
「ここは?」
「国境通過の申請所。ガジェストールとテーゼルは友好国だから簡単な作業で済むけどな。……ここで待ってろ」
ウィルはひらりとエアーバイクから降りると、ソフィアの返事を待たずに申請所の建物の中に駆け込んだ。
昼間は賑わっているこの場所も、今はだいぶ閑散としている。
ここまでかなりのスピードで来た為、防寒用に被っていた帽子とゴーグルはつけたままだ。これだけでもカモフラージュにはなる。
まっすぐに申請用端末に向かい、キーボードに指を置く。国境を通過するには、この端末に出入国の履歴を残さなければならないのだが、それには個人データが必要なのだ。ソフィアはそのデータ自体が存在しないので、新規作成をする必要がある。
本来は登録者本人かその委任を受けた代理人のみしか作ることは出来ないのだが、今回は王族特権プラスこのシステムの管理者特権で作成してしまうことにする。とはいっても、不正行為などではない。王族であるウィルがソフィアの身元を保証する…早い話が、ウィルはソフィアの後見人になったのである。
ウィルの指がキーボードの上を軽やかに踊る。個人データの作成と登録。そしてウィルとソフィアの出国手続き。犯罪録がなければすぐに許可が下りるような簡単な手続きだ。端末の近くの発券機から二枚のカードが吐き出された。
ちらりと腕時計に視線を落とすと、この端末を操作し始めてから五分ほど経過していた。
既に自分の出国申請データはこの端末に登録されているから、すぐにここを出た方がいいだろう。こんな簡単な変装では、見るものが見ればすぐにウィルだと気付くだろう。監視カメラに自分の姿は何度も映っているだろうから、あとはスピード勝負だ。
ウィルが早足で建物から出ると、エアーバイクに寄りかかったソフィアが、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、ウィルさん」
「……おう、行くぞ」
ソフィアにカードを一枚手渡すと、ウィルはエアーバイクを押した。そのまま関所に向かう。門には上下するバーがあって、カードを通さないとバーが開かない仕組みだ。
バーの横のボックスにカードを差し込むと小さな電子音の後、バーが持ち上がる。それを見ていたソフィアも、見よう見まねで同じような動作をした。
ゲートを通過し、テーゼル共和国側の国境の街・レフェルトに入った。しばらくそのまま進み、ゲートからだいぶ距離をとったところで、ウィルは一息ついた。
連れ戻される可能性の高いガジェストールにいる間は、旅を始めた感覚など少しもなかったが、他国の地を自分の足で踏みしめてようやく実感が伴ってきた。
これが、自分にとっての旅の始まりだ。
「……ウィルさん?」
「……なんでもない。今日はここの街で休む」
「はい」
こくりと頷いて、ソフィアが物珍しそうに辺りを見回した。ガジェストールほどではないものの、テーゼルにも機械は多い。魔術よりも機械の恩恵の方が大きい国のひとつだ。それでもやはり、ガジェストールとは雰囲気が違うとぼんやり街並みを眺めていたソフィアは、呆れたようなウィルの声で我に返った。
「いつまでぼけっとしてんだ」
「へ? ……あれ? エアーバイクは?」
気付けばウィルが押していたはずのエアーバイクがない。ソフィアの問いにウィルは心底呆れたような顔をした。
「……軍資金必要だし。整備に金かかるから売ってきた」
ちなみに、趣味の私物のバイクなので、売ってしまっても全く問題はない。
「ええ? い、いつの間にっ!?」
「お前がぼけーっとしてる間にな。……行くぞ」
「うう……。はい」
そして、二人が入ったのはレフェルトの中心街にある大きなホテルだった。ウィルがカウンターでチェックインを済ませ、従業員から受け取った二つの鍵のうちのひとつをソフィアに放ってよこす。
「あ、ありがとうございます」
「とりあえず、夕飯にするか。……さすがに疲れた……」
そういえば、七時間近く何も食べていないのだ。
「そうですね。……お腹も空きました……」
大した荷物もないし構わないだろうと、ウィルたちはそのままホテル内のレストランに向かった。