記憶のうた 第一章:旅立ちの日に(2)
私は誰なのかご存知ですか。その言葉の意味は、つまり。
「……記憶喪失?」
「どうやらそのようですね〜」
「……自分が何者なのか、分からない?」
「はい、さっぱりですー」
何故だか呑気に頷く少女。ウィルは軽く眩暈を覚えて、こめかみに手を当てた。
「……嘘だろ」
謎の魔力の調査をしに来たはずなのに、別の面倒事に巻き込まれているような気がするのは気のせいだろうか。
そういえば、あの謎の魔力は結局なんだったのだろうか。
当初の目的を失念しかけていたウィルだったが、ようやくその事に頭がめぐり、周囲を見回した。
この辺りは公式の調査でも何度か訪れているのだが、その時と変化した様子は見受けられない。素直に考えれば、目の前のこの少女が魔力の発生源ということになるのかもしれないが、はっきり言ってこの少女がそんな大層な存在のようには見えない。
それはともかく、こんないつ魔物が出てもおかしくない森の奥に少女を一人放置しておくわけにはいかない。
早々に森を出たほうがいいのだろうが、この少女をどこに連れて行くべきかが問題だ。この少女の現在の状況を確認しておいたほうがいいだろう。
「……あんた、自分がどこの誰なのか分からないんだな?」
少女は考え込むように俯いた。そして、真剣な眼差しになって顔を上げ、ひとつ頷く。
「はい」
「ここはガジェストールの王都、アンセル近郊の森だけど……聞き覚えは?」
「あります。ガジェストールは機械国、ですよね? 大陸の北方に位置する、フューズランド四大国のひとつ……」
「フューズランド四大国の残り三つは言えるか?」
「魔法国・クラフトシェイド。天上国・エアリアル。地底国・グランボトム、です」
少女の言葉は正しい。この世界は一面に広がる海にひとつだけ大きな陸地があり、他には小さな島国ならば存在するが大陸は無い。
そしてこの大陸の名称をフューズランドという。
その最北端に位置するのが機械で栄えた国のガジェストール王国。間にいくつかの国を挟み最南端に位置するのが魔法で栄えたクラフトシェイド公国。そして、フューズランドの上空に浮かんでいるとされる五百年間ほぼ鎖国状態の天上の国のエアリアル。フューズランドのいずこかにある洞窟より続く先に存在するという地底の国・グランボトム。
今は滅びた古代文明を起源とする四つの国を指し、フューズランド四大国と称するのだ。
少女はそういったこの世界の常識のようなことには、全て澱みなく答えた。
「……最後に、もう一度訊く。自分はどこから来たのか、何者なのか、何故ここにいるのか……自分の事で分かる事は、何一つないんだな?」
「……はい」
少女はこくりと頷くと、眉をしかめて何やら考え込みだした。小さくうーんと唸っている。
そんな少女をじっと観察しながら、どうやら彼女はエピソード記憶を失っているらしい、と判断する。外傷がないことを考えると心因性だろうか。それともここに倒れていたことが何か関わりがあるのか。専門家ではないので、分かるはずもないが。
「どうかしたか?」
考え込んでいる少女に短く尋ねると、彼女は顔をしかめたまま、ウィルを見返してきた。
「いえ……さっきからですね、何かを思い出せそうな、そうでもないような……あ!」
どっちだよ、と突っ込みを入れる前に少女の顔がぱっと輝く。
「私、ソフィアって名前で魔術師な気がします〜」
思い出したというよりも思いついたという様子で、少女が明るくのんびりと言った。
「どうでしょう?」
「答え合わせ風に聞かれても俺が知るかっ!」
「わぁ、ウィルさん元気ですね〜」
「人の話を聞けーーっ!」
よく分からない問いかけに反射的に怒鳴り返せば、見当違いな反応をされた。再び怒鳴り返したが、少女はウィルの様子など物ともせず、にこにこと笑っている。ウィルはどっと疲れを感じ、ため息をついた。
「あの……それで、どうでしょう?」
やや真剣さを帯びた少女の声音に、ウィルは再度ため息をついた。ソフィアは古代の言葉で『知恵』『叡智』を起源とする言葉だ。
これ程魔術師らしい名前もないだろう。
「……いいんじゃねーの? 魔術師のソフィア、ね」
疲れのせいか若干投げやりの口調になってしまったが、ウィルの言葉にソフィアはとても嬉しそうに笑った。
「はい!」
ウィルは改めてソフィアを見た。薄茶の肩を少しだけ越した髪に、薄紫の瞳。容姿は整っている部類に入るだろうが、これらの身体的特徴から彼女の身元を割り出すのは容易ではないだろう。何か珍しい特徴でもあれば、話は別なのだが。
だが、一応確かめてみなければならない。
ウィルはディパックの中から薄型のノートパソコンを取り出し、起動させた。
「……何をするんですか?」
「行方不明者のリスト、調べてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
ウィルはデータベースに彼女の特徴を入力しようとソフィアに視線をやった。その時、彼女の右手中指に輝く指輪を見つけた。何だか不思議な輝き方をしている。
「……その指輪」
「え? これですか? よろしかったら近くで見て……」
そう言って、ソフィアは指輪に手をかけ、びしりと固まった。
「はううう!? ぬ、抜けませんー! わ、私、太った〜〜!?」
記憶を失ったこと以上にショックを受けているソフィアは無視して、ウィルは目を細めて指輪を見つめた。
「……変な反射の仕方してんのは……この傷のせいか。……文字に見えるな」
「……えっと、古代文字みたいです……」
涙目のまま、ソフィアが言う。
「古代文字? 解析ソフトは入ってるけどスキャナーはないし、直接打ち込まないとだめか。……けど、専門外だから読めねーしな」
「私、読めますよ!」
早々に復活したらしいソフィアがびっと手を上げてた。随分と自信満々だ。
「……あんたが?」
「はい! 魔術師ですから!」
「自称だけどな。……まあ、読めるならいいや。解析ソフトも必要なくなるし。読んでみろ」
「はい! じゃあ、いきますよ〜」
ソフィアは指輪を見つめると、すうっと息を吸った。