記憶のうた 外伝 巡る雨〜記憶:悲しみの雨(1)
ティールズの街の空は、暗く重たい雲に覆われていた。海から漂う潮の香りとは異なる水の気配を感じて、ティアは頭上を仰ぎ見る。そういえば、この街に入ってから晴れた空を見ていないと思った。
今日も、青空を見ることは叶わないだろう。きっと、雨が降る。
そんなことを思いながら、ティアはブラント家の屋敷の屋根に登ると、するりと影に身を隠し、庭を見下ろした。
「……さて、どうしたものか」
視線の先には、今日も庭先で元気に遊ぶリュカとフェリスの姿があった。
実力を測る、と言っても日常動作しか行っていない現段階で、これ以上見定めるのは正直難しい。戦闘時の動きとは異なるものだからだ。
この一週間で分かったのは、やはり彼が相当の実力の持ち主だということを確信したくらいだった。
実力を見極めるには実戦が一番だと分かっている。だが、この屋敷に滞在している少年が、戦闘に巻き込まれるわけがなかった。こちらから仕掛けるという手がないわけではないが、それで警備を増やしてしまっては元も子もない。かといって、このままリュカの実力が分からないまま屋敷に突入し、予想以上の反撃にあって騒ぎを大きくするなど、絶対にあってはならないことだった。
正直、堂々巡りの感は否めなかった。
その時、ふとティアの神経に何かが触れた気がして、ティアは片眉を持ち上げた。
ここに潜んでいることがばれたのだろうかと思ったが、庭をきょろきょろとしているリュカを見ると、そうではないようだと判断した。しばし考え込むような顔をした後、屋敷側に顔を向け、そして。
リュカの唇が、動く。
声を出しているわけではない、と気付いたティアは目をすっと細めた。リュカの肩がほとんど動いていないし、リュカの言葉にならすぐにでも反応しそうなフェリスは、リュカに背を向けたまま地面に座り込んだまま、何の反応も示さなかった。
リュカの唇の動きを読んでいたティアは、近しいものしか分からない程度の戸惑いを表情に浮かべた。
リュカがこちらに背を向け、一週間前ティアが潜んでいた木の方向に身体を向けた。
ようやく合点がいった。
彼は、ティアがどこかに潜んでいることには気付いているが、場所は特定できていない。だから、潜んでいると思われる複数の方向に顔を向けて、メッセージを発したのだ。
受け取ったメッセージに、ティアは眉を微かにしかめた。
「……話がしたい。この間と同じ時間、同じ場所へ来て欲しい……だと?」
思わぬリュカからの申し出は、ティアを戸惑わせるのに充分な威力を持っていた。メッセージを発し終えたのだろう、庭の方からリュカとフェリスのはしゃいだような声がした。
「こんにちは」
「……ああ」
この間と同じように、塀に背を預けて声をかけると、低いアルトの声はリュカの頭上から降ってきた。リュカは、声のした木を振り仰ぐことなく苦笑した。
「あ、ちょっと警戒してる? そうだよね、驚くよね。いきなりこんなお誘いして、ごめんね」
「……別に」
短い返答と、塀の向こう側に人の降り立つ気配がした。
「私も、興味がある。……一体どんな話をしたいんだ?」
直球だなぁ、と苦笑を浮かべ、リュカは屋敷を見た。正確には屋敷の中、真正面にかけられた肖像画を。
「うん。……君がこの家を気にしているみたいだったから……ちょっと、ね」
リュカは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「君とこうして話した、あの日。……旦那様……フレデリック様は、僕に話してくれたんだ。十七年前の、自分の罪を」
「……お前は、旅の剣士なのだろう。そんなどこで口を滑らせるかも分からないような奴にあっさりと話せるような罪なのか?」
また直球だ。だが、的を射ている。当然の疑問だろう。リュカは目を閉じたまま苦笑を零した。
「旦那様の本当の気持ちなんて分からないよ。僕を信用してくれたのかもしれないし、僕一人が喚いたって害はないって判断されたのかもしれない。……ただ、聞いて欲しかったのかもしれないって、僕は思ったけど。……その罪は、今では旦那様と奥様しか知らない罪だったから……重たかったのかもしれない」
「……それを覚悟で負うのが罪だろう」
一段と低くなったその声に、リュカは目を開けた。目に映る肖像画の幸せそうな笑顔が今は寂しそうに映るのは、リュカの気のせいだろうか。
「そうかもね。……でも、負いたくて負った罪じゃない」
「……どんな、懺悔だったんだ」
その問いには答えず、リュカは口を開いた。
「この家の一人息子のフェリス。彼には、姉がいた。……死産だったんだ。書類上では、そうなっている」
微かに背後の気配が揺れたけれど、それには気付かなかった振りをして。リュカはさらに言葉を紡いだ。
「でも、本当は……そうじゃなかった。彼女は、捨てられたんだ。ここからだと国境を一つ越えた、遠い街に。ちょうど誕生日の一ヵ月後にね。……何でだが、分かる?」
その問いかけの答えを得るまでには、かなりの間があった。
「…………私に……分かるはずもないだろう」
感情を押し殺したような声音だ。
彼女は嘘が下手だ、とリュカは思った。
「……目が、赤かったんだって。喩えるなら……そう。血を塗りこめたみたいに」
そうリュカに言った時のフレデリックは、泣いていた。それは、嫌悪の涙などではなく――。
「当時、この街は政情が物凄く不安定だった。少しのきっかけで……内戦が起こるんじゃないかってくらい。そこに生まれたのが……赤い瞳の、子供。忌み子だと、つけ込まれる可能性は高かった」
ブラント家の没落だけなら、まだいい。しかし、領主の失脚はティーゼルの街に住む領民全ての不幸を意味していた。それだけは、避けねばならなかった。たとえ、自分の子供を不幸に突き落としてでも。それが、領主の責務だった。
血を吐くようにそう言ったフレデリックの隣で、イヴァンジェリンははらはらと涙を零していた。
自分達は最低の親だと。捨ててしまったあの子がどうなったのかは分からないし、知る資格もないとそう自嘲した笑みを浮かべた婦人の表情が、今もリュカの脳裏を離れない。
「そんなの……真実かどうかは分からないだろう。もっと利己的な理由で捨てたのかもしれないし、単純に赤い瞳に恐怖したのかもしれない。……真実は最早、分からない」
その言葉に、リュカは頷いた。
それは確かにそうだ。あの夫婦の言葉は、彼らにとって都合の言いように真実を捻じ曲げられたものかもしれない。疑おうと思えば、どこまでも疑えた。
……だが。
「セレスティア」
「……は?」
「セレスティア=ディアナ=ブラント。……その子の名前。セレスティアは天上のとか神聖なとかそんな意味でディアナはこの地域の月の女神様の名前。白い髪が月みたいで綺麗だったからって……疎んだ子に、そんな名前あげるかなぁ?」
「分からないだろう……。皮肉、かもしれない……」
「そんな人には見えないけど」
「何を、根拠に」
そこで、リュカは微笑んだ。
「僕の直感。……結構鋭いんだよ? 僕」
「……一週間前にも聞いた」
その言葉に、リュカは再度笑った。