「……あ!」
朝からずっと、外の様子を気にかけてそわそわと落ち着かなかったソフィアが、ふと顔を上げると表情を輝かせた。
その声につられてちらりと窓の外に視線を向ければ、微かな晴れ間と日の光が視界に映る。
ソフィアが淹れたお茶を口にしていたウィルは、数度瞳を瞬かせた。
今日は明け方まで雨が降り続いており、やんだ後もお世辞にはいい天気だとはいえないような薄曇りの空模様だった。
彼女が気にしているのが天気である以上、ウィルに何が出来るはずもなく、またソフィアも特に何を言うでもなかったため、ウィルも特に何のリアクションもせずにいたのだが――。
「……今日、何かあったか?」
今日のスケジュールはいつもどおり公務が詰まっているだけで、特別な用事は何もないはずだ。記憶を辿っても、彼女と何かを約束した覚えもない。
念の為に確認したスケジュールにも、これといった予定は記されていなかった。
それでも、そう尋ねてしまうくらいにはソフィアの様子が気にかかっていたらしい、ということに気付いて小さく苦笑を浮かべるウィルの斜め前の位置にあるソファに座っていたソフィアは、窓から視線を外すと間の抜けた声を上げた。
「……ふえ?」
「いや、ふえ? じゃねーし。……ずっと気にしてただろ? 外」
「き、気付いてたんですか?」
「そりゃ、あれだけそわそわしてりゃな。気付かないわけねーだろ」
まるで、遠足を楽しみにする子供みたいだったと言えば、ソフィアは微かに頬を染め、照れたように笑った。
「……すみません。抑えようとは思っていたんですが、つい……。気に障りました?」
「別に。……俺が勝手に気にしてただけだ」
そう言って一瞬だけ視線を外すと、ソフィアがふにゃりと笑み崩れた気配がした。
「……で、何かあったっけ?」
「ええっと。ごめんなさい。特に用事とかがあったわけではなく……本当に天気が気になっただけなんです。今日は、七夕なので」
改めて尋ねれば、ソフィアからそんな答えが返ってきた。
聞き覚えのない言葉に、ウィルは首を傾げる。
「……たなばた?」
ウィルのその反応に、ソフィアは数度瞬き、それから納得したように頷いた。
「そっか。……こちらにはない行事なんですね」
「……少なくとも俺は知らないな」
「じゃあやっぱり、エアリアルだけの行事なんですね」
ソフィアの微かに懐かしむような声音と単語に、ウィルは微かに目を見開いた。
彼女が捨てざるをえなかった故郷。その場所でのみ行われる行事。ソフィアが何を思ってそのことを思い出していたかは、ウィルには分からないけれど。
ウィルの視線の微かな変化に気付いたらしい。ソフィアは笑みを穏やかで、柔らかなものへと変えていた。
ソフィアは何も言わなかった。けれど、その笑顔に翳りはない。だから、ウィルも特に何かを口にすることもなかった。代わりに口にするのは別のことだ。
「……で、何なんだ? その、たなばたって」
ソフィアは考え込むように眉を寄せる。
「……ううーん。それがですね。エアリアルでも地域によって特色があったりで、説明が難しいんですが……。簡単に言ってしまえば、一年に一回のデートの日?」
エアリアルの行事と言うことで、もっと重苦しいものを想像していたウィルは、思わず頓狂な声を上げていた。
「はあ!?」
天気との繋がりも全く見えない。顔をしかめたウィルに、ソフィアはほんのりとした笑みを浮かべたまま、語りだした。
昔、天の川の畔に、働き者の姫君がいた。あまりに働きすぎる姫を心配した父親は、娘に働き者の青年を紹介する。二人は、あっという間に恋に落ちた。けれど、やっと外に目を向けた娘に父が安堵したのも束の間、問題が起きる。
恋に溺れた二人は、全く働かなくなってしまったのだ。
怒った父親は二人を天の川の対岸に引き離してしまった。そうして、会えなくなってしまった二人。けれど、真面目に働けば一年に一度の逢瀬は許される――そんな、お伽話を。
「……ふーん」
「その日が今日なんです。けれど、雨が降ると天の川が増水してしまって……会えなくなってしまうんです。ある地域では、カササギが橋渡しをしてくれて会えるらしいですけれど……」
なるほど、とウィルは頷く。ソフィアが天気を気にするわけだ。それにしても。
「……何つーか、随分自業自得な話だな」
「み、身も蓋もないですね……」
ソフィアが苦笑する。ウィルも淡く苦笑した。言っておいてなんだが、自分でも少しそう思った。
「……そりゃ悪かったな」
「いえ、ウィルさんらしいです。……ウィルさんってそういう無責任なこと、嫌いですよね」
「嫌いっつーか……。仕事なら、引き受けた以上、きちんとやり通す。……当然だろ?」
「そうですね。自分が困るだけならともかく、他の方にも迷惑をかけてはいけませんよね」
ソフィアはうんうんと頷いてから、目を細めた。
「……でも、二人とも心を入れ替えたんです。やっぱり、晴れてほしいじゃないですか。……願い事も叶いますし」
「……願い事?」
まだ何かあるのかと呟くウィルに、ソフィアは小さく笑ってあるんですよ〜と答えた。
「姫は物凄い技芸に秀でた方で、七夕の日に願掛けをすると技芸が上達するらしいです。それがいつしか、願い事を叶えてくれると言われるようになりまして……。短冊に願いを書いて笹の葉に飾ったりするんですよ」
「へえ、何か願いでもあるのか?」
「ふえ?」
ソフィアはぱちくりと瞳を瞬かせ、それから首を傾げてしばし考え込んだ。
「……うう〜ん。……ない、ですかね……」
「そりゃ無欲だな」
「そう、でしょうか? ……私の願いはほとんどウィルさんが叶えてくれましたし……」
ソフィアのその言葉は無意識で、だからこそ本心なのだろう。だが、言われた当人としては恥ずかしいことこの上ない。
不意打ちだと、特に。
「……何言ってんだか」
ウィルの言葉に、ソフィアもはっと我に返り、口を手でふさぐ。自分で言ったことが恥ずかしかったのか、ほんのり頬が紅潮していた。
「……言った後に口塞いでも全く意味ないぞ」
「う〜。……あ、ありましたよ! 願い事!!」
しばし唸っていたソフィアが、ぱっと顔を上げる。
「ウィルさんがちゃんと休憩してくれますように!」
その言葉に、ウィルはがくりと肩を落とした。確かに、ここ最近は仕事が詰まっていて、休憩も疎かになっていたかもしれない。
けれど、天に願う事がそれか。
ウィルは小さく息をついて立ち上がった。
「……ウィルさん?」
突然立ち上がったウィルに、ソフィアが不思議そうに首を傾げる。ウィルは、柔らかな苦笑を零した。
「……願い事が叶う日、なんだろう? 叶えてやるよ、雨も止んだことだし」
「……え?」
「ちょっと早いけど、たまには城下町で飯でも食うかって話」
そう言うと、ソフィアはぱあっと顔を輝かせた後、戸惑ったような顔をした。
「えっと、でも……」
ウィルを休憩させたいが、仕事が詰まっていることも知っているので、無理に休憩をさせたと罪悪感もあるらしい。出掛けたら休憩にならない、くらい思っていそうだ。
「ここのとこ、城から一歩も出てないし、外の空気吸いたいんだよ。オラ、付き合え!」
苦笑と共にそう言って腕を掴んで無理に立たせ、軽く額を弾けば、ソフィアもようやく笑みを浮かべた。
「……じゃあ、どこに行きます?」
何だかんだで嬉しいらしい。途端にうきうきとしだしたソフィアに、小さく柔らかな笑みを零して。
二人は執務室を後にしたのだった。