INDEX

    記憶のうた 番外編:声が聞こえるから


     思い出した記憶。思い出したはずなのに、再び失ってしまった記憶。
     ずっと求めていたものに手を伸ばすけれど、届かなくて。
     それどころか、零れていく。
     過去だけではない。今ある記憶も、想いも――……己の名前すら。
     いや、本当は名前も確かなものではなかった。けれど、彼が呼んでくれたその瞬間から、それは彼女という存在を示す、確かなもののひとつで。
     お願いだから、この記憶まで奪わないで。私が、私ではなくなってしまうから。
     そう願った、瞬間。

     ――……ソフィア?

     始まりの声が呼ぶ、その名前に。
     彼女――ソフィアは自分を取り戻した。

    「――……ソフィア?」
     ウィルの声に、ソフィアはうっすらと目を開け、数度瞬いた。
    「ウィル、さん……」
     掠れた声でウィルの名を呼んで、ソフィアはほっと息を吐く。熱のせいで頭がぼんやりとして思考が定かではないが、まどろんでいる間に浅い眠りにつき――夢を見たらしい。
     それくらいは、分かった。
     同時に強く安堵する。夢でよかった、と。
     夢の残滓を追い出すかのようにほっと安堵の息をつけば、ウィルが微かに眉をしかめた。
    「――……大丈夫か?」
     具体的に何を指して大丈夫か、とはウィルは聞かなかった。
     けれど、多分自分はうなされていたんだろうとソフィアは思う。そうでなければこのタイミングで、ウィルがソフィアを起こすはずがない。
     そう考え、ソフィアはふわりと笑った。
     大丈夫。少なくとも、そう言える位には大丈夫だ。だから。
    「……だいじょぶ、です」
     声が、ちゃんとすくってくれたから。ソフィアの弱い心を闇の底から、ちゃんと。だから大丈夫。
     ウィルは本当に一瞬だけ表情を緩めたが、すぐに再び眉をしかめる。
    「顔がさっきより赤いな。……ちょっと熱、上がったか? ったく、あいつら何をちんたらしてんだか」
     ウィルの言葉で、薬を買いに行ったリアとユートがまだ戻って来ていないらしいと知る。
     ソフィアの額に乗せられたタオルは、既に冷気を失ってぬるい。ウィルはタオルを手に取ると、近くに置いてあった氷水を張った桶で冷やし、ソフィアの額に乗せなおす。
     そうして離れていくウィルの服の袖を、ソフィアは無意識に掴んでいた。
     突然の行動に、ウィルが一瞬目を見開く。
    「!?」
    「あ……あれ?」
    「あれって、お前……」
     呆れたような声音でウィルは呟いたが、掴んだ指を振り払うようなことはしなかった。
     小さく息をついて、袖を掴まれたまま、腕をベッドに下ろし、もう片方の手で開きっぱなしだったノートパソコンを引き寄せる。そのまま、片手で操作し始めた。
    「あ、の……ウィルさん……」
    「寝てろ」
     こちらをちらりとも見ずに放たれた言葉。どこか不機嫌そうな声音だが、ソフィアは小さく笑った。
    「……はい」
     そして、袖をきゅっと掴んだまま、目を閉じる。
     嫌な夢はもう見ないだろう。何となくだが、そう思った。

    INDEX

    Designed by TENKIYA
    inserted by FC2 system