記憶のうた 番外編:Sweet plan
「二人とも、バレンタインというイベントを知っているだろうか?」
唐突なティアの問いかけに、ソフィアとリアは目を瞬かせた。
「知ってるよ〜。あたしの村ではあんまりやんなかったけど。えーっと花とかケーキとかを恋人とか仲良しな人に贈るんだよねぇ? ……あっ、今日だ!」
リアの言葉に、ティアは大きく頷いた。
「そうだな。……だが、とある地域では女性が好意を持つ男性にチョコレートを贈るというイベントになっているらしい」
「え? 女性が男性にだけ、ですか? しかもチョコ限定……。初めて聞きました〜。そんなのあるんですね」
「バレンタインが伝わったのが他の地域より遅く、なかなか浸透しなかったらしい。しかし、噂でバレンタインのことを聞いた女学生が、告白と一緒にチョコを手渡し想いが成就したことで、その街に爆発的に普及したようだ」
「ほえ〜。何かすごいねぇ。いいなぁ〜」
リアが瞳をきらきらさせる。ソフィアも微笑んで頷いた。
「そうですね。……ティアさん、よくご存知ですね」
「その街が、お菓子で有名なんだ。……いつか行ってみたい街のひとつだな」
真剣な顔で言うティアに、リアがきらきらした表情を向ける。
「お菓子の街なんだねっ! すっごーい。お伽話みたいっ!」
リアの反応に、ティアはひとつ大きく頷いた。
「……さらに、その街のバレンタインは独自の進化を遂げていて、友人同士でチョコを交換し合う友チョコや、感謝の意味を込めて贈るチョコやらがあるらしい。この時期の製菓店には、様々なチョコが並び、この時期にしか買えないチョコもあるとか……」
ティアの言葉に、ソフィアの脳裏をよぎった面影があった。
「……感謝の、気持ち……」
「へえ〜。何かいいね、そういうのっ! 普段なかなかありがとうって言えないもん!」
リアの言葉に、ソフィアはこくりと頷く。
「そうですね。改めてお礼を言うとすると、ちょっと照れちゃいますね」
「そこで、だ。……私達がこのガジェストールの城に厄介になってしばらく経つ。……このイベントに便乗して、何か贈ったらどうかと思ったのだが……」
どうだろうか、と自信がなさそうに尋ねるティアに、ソフィアとリアは満面の笑みを浮かべた。
「素敵だと思います!」
「うん! すっごいいいと思う! さっすがティアちゃん!」
二人の反応に、ティアはほっと目元を和ませた。
「せっかくだもん! やっぱ手作りかなぁ? でも、あたしお菓子作ったことないよ?」
「私も……ないんじゃないでしょうか。たぶん……」
とりあえず、ウィルと旅をするようになってから今までの間にはない。お菓子作りの知識もあまりないから、記憶を封じられる前の趣味がお菓子作り、ということはなさそうだ。
「大丈夫だ。私が出来る。では、厨房を借りることにしよう」
「うんっ!」
リアが大きく頷く。ソフィアはしばし考え込んだ後、ティアに近付いた。
「あの……ティアさん、ご相談が……」
ようやく辿り着いたウィルの執務室の前で、ソフィアははーっと息を吐いた。
異様に疲れているのは、迷ったせいだ。物理的にも、精神的にも。
今回は首から提げたストラップにタブレットコンピュータをつけて出てきたというのに、何でこんな迷ってしまったのだろうか。
ソフィアは再度息を吐いて、左手に握り締めたウィルから預かったままの黒いタブレットコンピュータに視線を落とす。
結局あの後、返す機会もなくソフィアが持ったままだったのだ。
そして、ちらりと右手の紙袋に視線をやり、微かに頬を紅潮させた。
「き……緊張する必要なんてないです! お礼! お礼なんです!」
首を横にぶんぶんと振り、力強く自分に言い聞かせて。ソフィアは顔を上げ、執務室のインターフォンを押そうとした、その時だ。
ほとんど音も立てずに、ドアが横に滑った。
「わきゃーーっ!?」
「うおおっ!?」
反射的に奇声を上げたソフィアに驚き、ウィルも声を上げる。びくりと動いた右手から紙袋が滑り、ぐしゃりと床に落ちた。だが、焦ったソフィアに、そのことに気付く精神的余裕はない。
「あああウィルさんっ!? どうしてここにっ!?」
「どうしてって……ここ俺の部屋だし」
律儀に突っ込むウィルの言葉に、ソフィアは顔を真っ赤にする。
「そうでしたっ」
「ってか、落としてるぞ?」
「……ああっ!?」
ようやく右手が空になっていることに気付いたソフィアは、慌てて袋を拾った。紙袋の外からでも、中の物が無事ではないことが分かって、ソフィアは悲しくなった。だが、ここで悲しい表情をしてもウィルを困らせるだけだ。
ソフィアは何とか笑顔を取り繕う。
「ウィルさん、お出かけですか?」
「ああ……。ちょっと腹が減って……買い置きしてた食べ物もなくなったし、何か適当に食おうかと思って……。で、それ何?」
ウィルが、紙袋を指差す。ソフィアはすっと目を逸らした。
「な……なんでもないですよ?」
「嘘付け。さっき、めちゃくちゃ悲しそうな顔してたくせに」
「えっ!?」
「お前、俺に隠し事出来るなんて思うなよ! おら、吐けっ!」
まるで悪役のようなセリフだ。とても王子がしゃべったとは思えない。
ウィルの視線の強さに、ソフィアはあっさりと白旗をあげた。
「……ウィルさん、お菓子の街のバレンタインって知ってます? そこでは、お友達同士でチョコを贈ったり、感謝の気持ちを込めてチョコを贈ったりするそうなんです」
「あー……。聞いたことあるな、そういえば」
「あの……で……これを、ですね。ウィルさんに……」
言葉にだんだん力がなくなっていく。最後のほうはウィルにはほとんど聞き取れなかったに違いない。頬に血が昇って、まっすぐにウィルを見ることが出来ず、ソフィアは俯いた。
「……くれんの?」
ウィルの声は静かで。感情がまったく見えない。
「……と、思ったんです。私、ご迷惑ばかりおかけしてますし……」
「……ふぅん。感謝の気持ちってヤツ?」
どこまでも平坦な声に、ソフィアはか細くはい、と頷いた。
「そう、思ったんですけど……。落としちゃいました」
「……他のヤツにも、これ渡したのか?」
「え? ……いえ、これはティアさんに教えてもらって私が作った、ウィルさん用です。あとはティアさんとリアさんと三人でチョコケーキを作りまして……それはお夕飯のデザートにって思ったんですけど……」
ウィルの質問の真意が分からないまま、ソフィアは答える。ふと、ウィルのまとう空気が変わった気がした。
「……ふーん」
あれ、機嫌がいい? と首を傾げる間もなく、ソフィアの手から袋が奪い取られる。
「ウィルさん!?」
「……くれるんだろ?」
「でも、中身……割れてますよ!?」
「そんなの、腹に入っちまえば一緒だろ」
それは王子のセリフとしていいのだろうか。ソフィアが止める前にウィルは袋を開け、中からスノーボールという名のココア味のクッキーを取り出した。
その名の通り、丸いクッキーなのだが、やはり見事に割れてしまっている。ウィルはそれをひょいと口に運んだ。
「……結構いけるじゃねーか」
「ほ、本当ですか!?」
「そんなつまらない嘘、言わねーよ」
ウィルは苦笑して踵を返すと、執務室の中に一歩足を踏み入れた。
「……ウィルさん?」
「これがあるからな。……寄ってくか?」
ウィルの言葉に、ソフィアはでも、と表情を曇らせた。
「お仕事、お忙しいんでしょう? 私、お邪魔なんじゃ……」
「これから休憩するとこだったんだ。邪魔だったら誘わねーよ。……まあ、残念ながらコーヒーしかございませんが?」
妙に丁寧な口調で言って、口角を上げて笑うウィルに、ソフィアも自然と笑みが零れる。
「平気です。コーヒーも嫌いじゃないですよ?……じゃあ……お言葉に甘えて」
ソフィアの返答に、ウィルが柔らかく笑う。その笑顔に妙な緊張感を覚えながら、ソフィアはウィルの執務室に足を踏み入れた。