いつもの時間に、ソフィアはウィルの執務室を訪れる。
ちょうど仕事に一区切りがついたらしい。ウィルはパソコンの電源を落とすと、すぐに執務机から立ち上がった。その際にこめかみの部分を指で揉み解しているのを見て、ソフィアは表情を曇らせた。
「……大丈夫ですか? 顔色、あまりよくないですよ」
「あー……ちょっとキツい。……もうひとつの案件片付いたらさすがに休む」
深いため息をつくウィルにソフィアは眉をしかめた。
ウィルが仕事でこんな風に疲れを口にするのは珍しい。ならば、疲れはよっぽどなのだと思いながら簡易キッチンに向かって、ヤカンを火にかける。そこでふと、今日はウィルの好きな飲み物にしようと思い立った。
いつもは好きにしていいという言葉に甘えて、ソフィアの好きなお茶を淹れているのだが、それほどに疲れているならウィルの飲みたい物を淹れたいなぁと思う。
「ウィルさーん」
そう呼んで。簡易キッチンからひょっこりと顔を出したソフィアは、きょとんとした顔で数度瞬きを繰り返した。
ソフィアの呼びかけに返事がないが、それも無理はない。
ウィルは執務室の中央にあるソファに深く腰掛け、眠っていた。寝息だけが静かな室内に響いている。
瞬間、ヤカンからピーッと高い音が鳴り出した。唐突な音に、ソフィアは肩をびくりと震わせる。
「うわわわ! しーっ!」
ヤカンにしーっといっても意味がない。慌てすぎである。
ソフィアはわたわたとしながら、コンロのスイッチを切った。同時に沸騰を告げる音はぴたりと止まる。
恐る恐る簡易キッチンから隣の部屋を覗くが、ウィルは固く目を閉じたままだ。目を覚ましたような様子はない。ソフィアはほっと息をつきつつ、そっとウィルの傍に近づいた。
「……物凄く、お疲れなんじゃないですか……」
顔に濃く見える疲労の色に、ソフィアは小さく息をつく。これだけの音をたてても目を覚まさないのだから、よっぽど深く寝入っているに違いない。
それにしても、と部屋に備え付けのブランケットを探しながら、ソフィアは小さく苦笑する。
旅の間も思っていたことだが、ウィルはどこでも眠れる人だ。王子という至高の身分の肩書きがあるにもかかわらず、野宿だろうが安宿の硬いベッドだろうが廃業した酒場の床だろうが文句一つ言わずにあっさりと眠りにつく。
「あ、あった……」
棚に入っていたブランケットを発見したソフィアは、それが真新しく遣った形跡がないことに気付き、瞬いた。同時に、先日クレムとお茶会をしていた時にクレムが零していた言葉を思い出す。
「……お仕事中は眠そうな表情すら見せない、って言ってませんでしたっけ?」
無意識の独り言が思った以上に大きくて、ソフィアは慌てて口をつぐんだ。
確か、何かの話の折にそんなことを言っていたような気がする。三日くらい徹夜をしても、公務に出ればそんな表情など欠片も見せない。公務を終えてプライベートスペースの自室に戻るまで崩れることはない。
だから、近年ウィルの寝顔を見たことがないのだと、何だか拗ねた表情で言っていたクレムを思い出し、ここがどこなのかを考える。
執務室だ。ウィルの個人的な公務の場。しかもこの時間も小休憩を取っているだけで、執務の真っ最中である。
ソフィアは薄紫の瞳を数度瞬かせた。
それほどに疲れているのだろう、とは思う。
けれど、例えば。ウィルがこの僅かな休息の時間で、自室にいるように寛げているというのならば。そして、その時間をソフィアがウィルに与えることが出来ているならば。
これ以上、幸せで嬉しいことはないのではないだろうかと思うのだ。
それが、執務も何も手伝えないソフィアに出来る精一杯のことだと思うから。
「……て、ちょっとおこがましいですよね」
照れたような笑いを小さく浮かべると、ソフィアはそっとウィルに近づいてブランケットを膝にかける。
あまりここで眠ってしまうと、今度はあとの仕事がつかえてしまうだろうから。いつもソフィアとお茶を飲んでいる時間だけの短い睡眠になってしまうけれど。
それでも、ここで眠っておけば後の仕事のはかどり具合はだいぶ違うだろう。
「……おやすみなさい、ウィルさん」
そう囁いて、ソフィアは柔らかく微笑む。
目が覚めた時には喉が渇いているだろうからアイスコーヒーでも淹れようかなぁと思いながら、振動で起こさないようにソフィアはそっとソファに腰掛けた。