ふと机の上に置かれたデジタルの時計に視線を向けたソフィアは、そこに一緒に表示された日付を見て、はっと息を呑んだ。
「あ、今日バレンタインデーじゃないですか!」
一年前のこの日、旅の仲間だったティアに教わってお菓子を作りウィルに手渡した。その時のことを思い出してソフィアは小さく微笑む。
感謝の気持ちを込めて贈ったチョコレートクッキー。袋ごと床に落として砕けてしまったけれど、それをウィルと一緒に食べたのも、今ではいい思い出だ。
あの時の自分が、今のソフィアの立場を知ったらどう思うだろう。
そこまで考えて、ソフィアははっと我に返った。
「……バレンタイン……用意するの忘れてました……!」
そもそもこのガジェストールという国ではバレンタインは一般的なイベントではないのだ。ここのところ忙しかったうえに、今まであまり縁のなかったイベントだったので、ソフィアはバレンタインデーの存在すらすっかり忘れ去っていたのだった。
「……どうしましょう」
ソフィアは困り顔で考え込む。忘れ去っていたのだから、もちろん何か贈り物を準備しているわけもなく、また今日は外に買いに行くような時間も取れない。
なら作ればいいのではないかと思うのだが、お茶やコーヒーなど飲み物を淹れるのは上手いソフィアだが、それ以外の台所での作業は正直に言って自信がないのだ。
お茶を淹れるのも料理も同じ台所作業なのだが、お茶を淹れる時は余裕を持ってできる動作も、料理となるとなぜか慌ててしまい、結果失敗してしまう。
以前から練習していれば、それでも何とか一人で作れるのかもしれないが、バレンタインは今日なのだ。練習している時間などあるわけがない。
もちろん、何も贈らないという手もある。この国では一般的なイベントではないのだし、ウィルもソフィアが色々と立て込んでいるのを知っている。何も贈らなくてもは特段何も言わないだろう。
けれど、気付いてしまったのだから、ソフィアとしては何かを贈りたい。
感謝の気持ちはもちろんあるけれど、去年と今年ではソフィアの立場もウィルへの気持ちも、何もかもが違うのだ。
「ううう……」
どうしようと頭を抱えて考え込んでいたソフィアは、はっと顔を上げた。
「そうです! あれなら私にもできるかも!!」
ぱあっと顔を輝かせてそう叫ぶと、ソフィアは自室を飛び出したのだった。
「ウィルさ〜ん。……休憩にしませんか?」
ソフィアのやや遠慮がちな呼びかけに、集中して書類を読んでいたウィルははっと顔を上げた。
「……来てたのか」
集中しすぎて、ソフィアがこの部屋に入ってきたことにすら気付いていなかったウィルが、数度瞬いた後、そう呟く。
「はい。……ごめんなさい、お邪魔してしまいましたね」
しゅんと肩を落とすソフィアに、ウィルは小さく苦笑した。
「いや。さすがに、そろそろ休憩しないとヤバそうだし、気にすんな」
そう言いつつ、凝り固まった首を回してほぐしていたウィルは、ふと首を傾げた。執務室に併設された簡易キッチンから漂うのは、コーヒーや紅茶、それからハーブティーとも異なる甘い香り。
「……何か甘い匂いするな」
「あ、はい!」
ソフィアはこくこくと頷いた。踵を返して簡易キッチンに姿を消すと、ウィルのマグカップを大事そうに両手で包み込んで現れた。
「あの、お口に合うのかは分からないんですけど……!」
そう言って、なぜかやたらと仰々しくマグカップを差し出してくるソフィアに、ウィルは一瞬怪訝そうな顔をした。だが、それも一瞬だ。
「お前、何やって……。……ああ」
マグカップに注がれたホットチョコレートを見つめて、合点がいったかのように頷く。
あっさりと見抜かれたソフィアは、何だか恥ずかしくなった。手を引っ込めてしまいたい衝動に駆られるが、そんなことをしてはホットチョコレートが零れてしまう。
そんなソフィアの葛藤が表情から見えるようで、ウィルは小さく笑い、そのまま尋ねる。
「……くれんの?」
「は、はい!」
「何だっけ、これ……。感謝の気持ちだっけ?」
「ち、違います! いえ、違くないですけど、違うんです〜!」
頬を真っ赤にしてあわあわと慌てだすソフィアに、ウィルは小さく噴き出した。
「……分かってるって」
その言葉にさらに赤くなるソフィアに、ウィルは微かに目元を和ませる。
「んじゃ、ありがたくいただく。……さて、いい加減ちゃんと休憩するか」
そう言って柔らかくソフィアの頭を撫でると、ソフィアは数度瞬いたあと、ふにゃりとした笑みを浮かべたのだった。