記憶のうた 番外編:ガラスの靴はないけれど(1)
「ねえ、クレム。この国の王妃にならない?」
プロポーズをするには――しかも、機械国ガジェストールの次期国王候補が――世界一不釣合いな場所で、どう考えても言うタイミングじゃないだろうという雰囲気で、しかもその辺の喫茶店でちょっとお茶でもと誘うような気軽さで放たれた、その言葉。
けれど。確かに。
その言葉は、クレムにとっての始まりの言葉だったのだ。
「……凄い! 美味しいわ! ソフィアってお茶を淹れるのが上手なのねぇ」
「本当に。こんなに香り高い紅茶は久しぶりに飲みましたわ」
クレムとアデルに手放しに褒められたソフィアは、微かに頬を紅潮させ、微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」
「うーん。……やっぱり、こういうタイプの娘もいいわぁ。すっごく癒されるもの。……ねえ、ソフィア! この前の話、真剣に検討してみない?」
「え?」
首を傾げるソフィアの隣で、こういった話への嗅覚がパーティーの女性陣の中では随一のリアの瞳がきらりと輝いた。
「あ〜っ! 分かったぁ! それは、ソフィアちゃんがウィルちゃんのお嫁さんになる話、ですよねっ!?」
「もっちろん!」
リアの言葉に、クレムは満面の笑みで頷く。
ソフィアは口に含んだ紅茶を思わず吹き出しそうになり、懸命に堪えた結果、むせた。
「だ、大丈夫か? ソフィア」
背中を撫でてくれるティアに、ソフィアは目尻に涙を滲ませたまま笑みを向けた。
「な、何とか〜……げほっ」
一方のクレムはというと、すでに自分の世界に突入しており、ソフィアの惨事には全く気付いていない。
「まあ、あの子は愛想はないし口と目つきは悪いけど全体的に見ればそう悪いものじゃないと思うのよね! って親ばかかしら? でも、なかなかのお買い得な優良物件なんじゃないかと思うのよ! 王子だし!」
取り繕っていたはずの丁寧な言葉もすっかりと抜け落とし、クレムはすらすらと語る。ほとんどノンブレスだ。
この場にウィルがいれば、クレムの言葉に様々な突っ込みを入れるのだろうが、残念なことにこの場にいるメンバーに突っ込み要員は一人もいなかった。
クレムと付き合いの長いアデルはというと、楽しそうに笑って様子を見守っている。
「身分なんて気にすることないわよ? だって、私だって単なる宿屋の娘だったんですもの。うるさい貴族のじーさんなんてヅラ燃やして泣かしてやりゃいいのよ」
随分と過激な言葉が出てきた気がする。ソフィアとティアは思わず顔を見合わせた。
「あっ! そう言えばクレメンテ様〜。あたし、ずーっと聞きたかったんだけど〜」
クレムの発言を聞いていたのか、いないのか。はーいとリアが手を上げる。その声に、クレムが現実に帰還した。
「え? あら、何かしら? リア」
「クレメンテ様って庶民の出なんですよね〜?」
「ええ、そうよ」
頷くクレムに、リアの瞳がきらきらと輝いた。
「じゃあじゃあ、何で王妃様になれたんですか? どこで王様と会ったの? プロポーズはっ!?」
わくわくと頬を紅潮させるリアに、クレムは僅かに考え込む。
「……リアが期待するほど素敵でもロマンチックでもないわよ? 出会ったのは実家の宿屋だし、プロポーズも宿屋の台所だったし」
「「ええっ!?」」
ソフィアとリアが、見事に声を重ねて驚く。その様子に、クレムは笑った。
「嘘じゃないわよ。プロポーズされた時の感想は、こいつ馬鹿じゃないの、だったもの。お客様だったからそんなこと言わなかったけど」
「お客様? ……陛下は、宿屋の客だったのか?」
ティアが微かに眉をしかめて、首を傾げる。
「クレメンテ様は……アンセルの出身ではないのか?」
ティアの疑問に、アデルがティーカップに口をつけつつ、クレムを見た。
「ご実家はアンセルの郊外の宿屋、でしたわよね?」
「そうよ〜。結構、流行ってたんだから。私も看板娘としてリアくらいの時から働いてね〜」
すっかり砕けた口調になってしまったクレムが、懐かしむように目を細める。
「……リアさんくらいの年齢なら、この国では義務教育期間、ですよね?」
首を傾げるソフィアに、よく知ってるわね〜とクレムは笑う。
「でも、それが平民までちゃんと適用されるようになったのは、陛下が王位を継がれてからなの。それまでは貧富の差が激しくて、庶民は子供でも働かなきゃ食べていけなかったのよ」
「そ、そうなんですか」
「……なら、何故陛下はあなたの宿屋に? 城に住んでるなら、王都の宿に止まる必要はないはずだ。……しかも、郊外ならば価格は比較的安いはず」
ティアの疑問に、クレムはにっこりと笑う。
「そうね。中心地のほうには高級な宿もたくさんあったわ。でも、陛下はうちにいらしたのよ。……冷たぁい雨の日にね」
クレムはちらりと窓の外を見て息をついた。雨が激しく窓ガラスを叩く。これだけ酷い雨だと、客足はやはり鈍る。それがどうしようもなく憂鬱だ。
しかし、その時来客を告げるドアベルの音に、クレムは顔を上げ営業用の笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませー……」
そこで、クレムは言葉を詰まらせた。扉から入ってきたのは絹のような銀髪に翠の瞳の、整った顔立ちの青年だった。その服は質素ではあるが遠目から見ても質の良いものだと分かる。どう見ても、この宿に好んで入ってくるような身分には見えない。
宿泊客というよりは、雨避けのために入ってきたのだろう。
全身びしょ濡れの青年の姿にクレムはそう結論付け、微かに息を吐いた。
客にならない人間をいつまでも居座らせるほど、クレムの家の生活は楽ではない。だが、こんな酷い雨の中に放り出すほど人でなしでもなかった。
あわよくば、チップの一つや二つくらいはくれるかもしれないという打算がない訳ではなかったが。
クレムはくるりと踵を返すと、近くの棚から大きめのタオルを取り出した。こういった事態は割りと多いので、食堂である一階にもタオルを備え付けてあるのだ。
「凄い雨ですね。今日は寒いですし、大変だったでしょう? どうぞ、これをお使い下さい」
精一杯の笑顔で青年にタオルを差し出すと、青年は微かに目を見開いてクレムの持つタオルを不思議そうに眺め、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
やけに嬉しそうに笑う青年に、クレムは妙な気分になる。
「……どういたしまして」
青年はタオルを頭に被ると、がしがしと乱暴に拭く。あまりに雑な動作に、クレムは軽く目を見開いた。
「参ったよ。いきなり降られてね。しかも私はこの辺りにあまり詳しくないし」
そうでしょうとも、とクレムは内心で相槌を打つ。貴族は中心街で華やかに暮らし、めったなことでは郊外には来ない。
フューズランド四大国のひとつ、機械国ガジェストールの政治は、現在腐敗しきっていた。貴族達は己の富を肥やすことにしか興味はなく、庶民はその日暮らしの日々だ。
努力だけではどうにもならない、身分の差。生まれが違うだけで、どうしてこうも生活が異なるのだろう。
そんなクレムの思考は、若干呑気な青年の言葉に打ち消される。
「……ねえ、ここって宿屋さんだよね? 何か食べる物って出せる?」
「出せますよ。うちは食堂も兼ねてますから」
クレムの言葉に、青年の顔が輝いた。
「よかった。じゃあ、何かお願い。朝から食べてなくってお腹空いてるんだ」
そう言って青年は何の躊躇もなく、カウンター席に腰かける。どう見ても貴族の青年が好むような店ではないのに。
「……少々、お待ち下さい。シチューならすぐに出せますから」
初めて間近で見る貴族は、クレムが常に頭の中で思い描いていた傲慢な姿とは違って。戸惑いを覚えつつ、クレムは台所に向かったのだった。