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    蒼穹の狭間で  2.目覚めの時(2)


     胡蓮という村は、天界の中でも辺境の村のひとつらしい。この道が、他の集落に繋がる唯一の道なのだという。
     春蘭の天界講座を聞きながら、雅は周囲を見回した。森の中を一本だけ通るこの道も、もちろん舗装なんてされていない。
     時々微かに聞こえる鳥のさえずりが、耳に心地いい。これだけ穏やかな森の中を歩いていると、陰羅が復活しただの何だのというのは嘘なのではないかと思ってしまう。
    「……ええっと。で、どこに向かっているんだっけ?」
    「彩斗という町です。結構大きな町で、色々な街道の起点になっている町なんです」
     春蘭の言葉に、そうなんだと頷く。
     周囲に広がる雄大な自然に、見知らぬ土地、見知らぬ文化。多少なりとも好奇心が疼いてしまうのは仕方がないことだろう。これがもし一人旅を強制されたのなら不安でいっぱいだったのかもしれないけれど。
     きょろきょろと周囲を見回しながら歩いていた雅は、慧が一瞬鋭い視線を森の奥に向けたのを目に留めて、首を傾げた。
    「……慧?」
     それには応じず、慧は剣の柄に手を伸ばす。
    「春蘭!」
     呼びかけに、春蘭は服の袖から札を出すことで応じた。
    「我、汝に請い願う! その御名のもと、我らに大いなる守りを授けたまえ!」
     同時に森の茂みががさりと音をたて、一匹の魔物が飛び出してくる。あまりの速さに、雅の目では正確な姿は捉えられない。異形の影が飛び出してきたことしか分からなかった。息を呑む雅の横で、春蘭が小さく印を切った。
    「護神!!」
     同時に展開した不可視の壁が、その魔物の突進を弾き飛ばす。地面に転がった魔物の姿を見て、雅ははじめてその魔物の姿をきちんと把握することができた。狼によく似た魔物だ。今まで、気配を殺して潜んでいたのだろうか。目の前に相対すると、その存在に恐怖を覚え、それから自分がこの魔物の存在に全く気付いていなかったことに恐怖を覚えた。
     一人ならば、今の一撃で確実に死んでいた。
     穏やかに見える森だけれど、ここは確かに異世界で、気を抜いてはいけない場所なのだと痛感する。
     愕然とする雅の横を剣を抜いた慧が駆け抜け、魔物が態勢を整える前に切り捨てていた。
     雅は、無意識につめていた息を吐き出す。短い時間の出来事だったはずなのに、異様に長く感じた。緊張していたのだろう。
     慧が剣を鞘に納めると、小さく息をついて雅を振り返った。
    「雅、怪我はないな?」
    「う、うん……」
     声が若干強張ってしまうのは、隠しようがなかった。慧が一瞬だけ眉をしかめるのを見て、雅は慌てて小さく笑みを浮かべた。
    「大丈夫、怪我はないから。ちょっと……びっくりしただけ」
     そう言って魔物に視線を落とした雅の目が、本当に驚きで丸くなる。魔物の身体が砂のようになって、風に溶けて消えていったからだ。その視線の先を追った春蘭が、不思議そうな顔をした。
    「……どうしました? 雅ちゃん」
    「どうしました? って……。え? 魔物は? 何あの現象?」
    「ああ。魔物は死んだら砂になって、風に溶けて消えていくんだ」
     そう言えば、昨日慧に助けられた後も、ひとつも魔物の死骸を見なかったのはこのせいか、と内心納得する。
    「そ、そうなんだ。……不思議一杯な生き物ね。魔物って」
     納得はしたが、それはちょっと吸い込んでいそうで嫌だな、と思わないでもない。思わないでもなかったが、口にすることはしなかった。言ってどうなるものでもないし、命を狙われている以上、倒さないわけにはいかない。
     しかも、戦う力のない雅は守られているだけの現状だ。正当な主義主張でもないものを言い張る気にもなれなかった。
     慧は周囲を見回してから、雅と春蘭を促す。
    「さて、行くか。あんまり同じ場所にいると、それだけ魔物に襲われやすくなるし……賊が出ないとも限らない」
    「そうですね」
     慧の言葉に、春蘭があっさり頷く。
     雅は、慧の言葉に衝撃を受けていた。賊という言葉が何を指し示すか分からないほど馬鹿ではない。
    「雅ちゃん?」
    「ご、ごめん」
     そう。ここは日本じゃない。違う世界なのだ。剣と魔法のファンタジーの世界。そんな風に気軽に考えていたけれど、実際に触れてみれば、現実はこんなにも生々しい。
     賊という言葉を普通に出す慧達。普通に言葉にするくらいには、天界にはそういった犯罪行為に手を染める人間が出没しているらしい。胡蓮の村が襲われたことがないとは言い切れないだろう。村の守護の任を請け負っていた慧は、もちろん村を守るために戦うだろう。……その手を血に染めることも厭わずに。
     同じ年頃なのに、彼が大人びて見えるのは、今までの人生での経験と、負っている覚悟の違いなのかもしれない。
     そのことに思い至った雅は、先程渡された勾玉をぎゅっと握り締める。
     雅の力を守り、開放するという石。けれど、今の雅は己の身を守ることすらままならない状態だ。ただ、守られているだけの足手まといの存在。そんな存在に、本当に世界を救う力があるのだろうか。
     そんな疑念が生まれたのは、使命を押し付けたこの世界は好きになれなくても、慧と春蘭を嫌っているわけではないからだろう。
     伝説や押し付けられた使命への反発心以外にこんな感情を抱くことになるとは思ってもみなかった。
     雅は、複雑な感情を抱いたまま、慧と春蘭の元に駆け寄ったのだった。

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