蒼穹の狭間で 1.伝説の始まり【5】
雅は校内を一人歩きながら、何事かをぶつぶつと呟いていた。
「……えーと、チラシに載ってた目玉商品は、玉子とー白菜とー……」
本日購入予定の商品の確認作業なのだが、年頃の女子高生が呟く内容としてはいかがなものだろうかと雅の周囲の人間は思ったりするのだが。
雅自身はそのことを気にする様子もなく、指折り確認しながら昇降口で靴を履き替え、外に出た。スーパーへは裏門から出たほうが近いので、学校の裏手へと回る。
「帰ったら洗濯物も取り込まなきゃっ!」
忙しい。疲れるはずだわ、と零したところで雅を再び妙な違和感が襲う。
思わず足を止め、周りを見回す。しかし、何もない。校舎を挟んだ向こう側にある校庭から、部活動をする生徒の声がするくらいだ。
何もないと確認して。それなのに、違和感は消えない。むしろ、大きくなっていく。
心臓が不穏に音をたてる。魂を震わすような、感覚は。
その時、目も開けていられないような風が、雅の髪を強く揺らした。
時は、僅かに遡る。
裕幸はダウンのポケットに両手を突っ込んで、学校までの道を小走りに進んでいた。その途中、聞き覚えのある声に、呼び止められる。
「あれ? 古賀君」
「あ、早瀬さん」
大きな鞄を肩からかけた智花の姿に、裕幸は数度瞬いた。
「でっけー鞄。どっか行くの?」
「違う、帰るところ。本当は創作ダンス教室に行くところだったんだけど、先生が風邪でダウンしたって今連絡入って」
何となく並んで歩くと、今度は智花が不思議そうに瞬いた。
「古賀君こそどうしたの? 日直サボってダッシュで帰ったのに」
見てたんだから、と意地悪く笑う智花に、裕幸も苦笑を浮かべる。
「いや、あいつたぶんスーパーに行くだろうから、荷物持ちでもするかな、と。……それくらいしないと、夕飯食べに行った時、キャベツまるごととドレッシングをでーんって置いて、サラダ! とか言いそうだし、あいつ」
裕幸の言葉に智花は吹き出す。
おおよそ間違ってはいない。確かに、これだけお互いを分かりすぎていたら、恋愛感情なんて浮かばないのかもしれない。愛はあっても親愛ってやつなのだろう。
「あはは。粉ふきいもオンリーにしてやるって言ってたよ」
「げっ。何その喉渇きそうなメニュー」
智花はひとしきり楽しそうに笑うと、腕時計に視線を落とした。
「もうそろそろ、雅が学校出るところよね。ちょうどいいから、雅の顔見て帰ろ〜」
そうして、二人で裏門を抜けた、瞬間。強い風が二人に吹き付ける。そして、風に紛れて届いた聞き覚えのある声に裕幸と智花は思わず顔を見合わせた。
「今、何これって聞こえなかったか? ……雅の声で」
「ちょっと焦ってたっぽかったよね?」
二人とも聞いていたのなら、空耳だとは考えにくい。二人は唇を引き締め駆け出し――校舎の角を一つ曲がったその先で、異様な光景に、息を呑んだ。
強すぎる風に、反射的に鞄を投げ出して、顔を庇って。
「な、何これぇっ!?」
風がやんだ気配に目を開けたら、雅の状況は先ほどまでとは一変していた。風が雅を中心に渦を巻いている。風が巻き上げる埃が凄くて、風の向こう側がまったく見えない。
「えっと……竜巻?」
しかし、普通の竜巻とは違うように思う。まったく動かないし、空気が吸い上げられて低圧になっている様子もない。呼吸も普通に出来ているし。
けれど、さすがにこの風に手を伸ばしてみる勇気はなかった。こんな物凄い風に触れて、無事にすむとは思えない。
「鞄は竜巻の外。ケータイ、も鞄の中かぁ。……どーすんの、これ……」
逃げようにも逃げ道がないので、冷静になるしかない。しかし打つ手など浮かぶはずもなく、雅は腕を組んだ。その時。
「――やび!?」
聞き覚えのある声が聞こえた気がして、雅はばっと顔を上げる。風の向こうに人影が二つあるのが分かった。
「裕幸!?」
声を張り上げれば、先ほどよりはっきりと、裕幸の声が風を越えて届く。
「雅!? この中にいるのか!?」
「これ、なんなの!? 竜巻!?」
今頃創作ダンスに勤しんでいるはずの親友の声に、雅は目を丸くした。
「智花!?」
瞬間、雅を取り巻く風が威力を増し、裕幸と智花の雅を呼ぶ声が遠ざかった。
思わず目を閉じていた雅は、風の音が全くしなくなったのに気づき、目を開け――絶句した。
そこは学校ではなかった。そもそも、見知った場所ですらない。
足元はアスファルトではなく、広大な平原。見渡しても、住宅街も何もなく遠くに連なる山々が映るのみ。
そして、風の向こう側とはいえ目の前にいたはずの裕幸と智花の姿はもちろんなく、代わりに、雅と同じ年頃の見知らぬ少年と少女が一人ずつ立っている。
二人とも洋服ではなく、着物に似た服を着ている。
艶やかな黒髪の少女が、にっこりと微笑む。
「急にお呼び立てして、申し訳ございません。……ようこそ、天界へ」
やたらと畏まった口調で訳の分からないことを言う少女に、雅の思考は見事にフリーズしたのだった。