蒼穹の狭間で 1.伝説の始まり【3】
「う〜……今日もさっみーな」
そう言いつつ階段を降りて来た優也の姿に、弁当に蓋をしていた雅は驚きに目を見開いた。
「起きてきた……!」
「いや、あそこまでされて起きない方がおかしいし」
まじで痛かったんですけどー、と呟く優也の冷たい視線からふいっと目を逸らし、雅はテレビに視線を向ける。
「……今日、雪でも降るのかしら。洗濯物干しちゃった」
「いや、そこまで珍しくないだろ!」
そんな兄妹の微笑ましい会話に、眠そうは遥の声が割って入った。
「おはよ〜……」
「おはよ、お母さん」
「原稿、終わったのか? ……もしかして、徹夜?」
確か今日の午前中までの原稿があったはずだと優也が口を開けば、遥は気だるそうな様子で首を横に振った。
「ん〜。原稿は、もちょっと……。さすがに眠くて……仮眠取っちゃった。ゆーや、コーヒーちょーだい」
最後の方は完全に舌が回っていない。
「あ、お父さんも欲しいね」
そこに神代家の大黒柱の彰彦が、スーツにネクタイときっちりとした姿で顔を出す。
「あ、あたしも欲しいっ!」
「優也の淹れるコーヒーは美味しいからね」
「人間、一つばかりは取り柄があるものねぇ」
「……雅、今日何気に俺にひどくないか?」
半眼で雅を見ながらも、多数決には勝てないらしく優也はコーヒーを淹れ始める。遥の血を色濃く継いだのか家事をやらせたらなかなかに悲惨な事態を引き起こす優也だったが、お茶やコーヒーなどの嗜好品を淹れたら神代家一という、ある意味器用な特技の持ち主だ。
「豆の種類は俺の飲みたいやつにするからな!」
「いいわよ〜。あ、私のはうんと濃くしてね〜」
眠気覚ましも兼ねているらしい遥の言葉に、優也は疲れたように息を吐くと頷いたのだった。
雅も優也も、家から歩いて十分ほどの中堅の公立高校に通っている。
朝のような小競り合いはしょっちゅうであるものの、基本的には仲の良いこの兄妹は特に用がない限りは一緒に登校することが多い。
「うお〜っ。やっぱしさっむいなぁ。吐く息が白いし!」
「今冬一番の冷え込みって言ってたよ、天気予報で」
「まじで!?」
他愛のない会話を交えつつ、雅はふと空を見上げる。瞬間、違和感が身体を貫いた。
「っ!?」
思わず息を呑み、立ち止まる。だが、周囲に何も変わった様子はなく、雅自身にも異常はない。
一体何に、と考えた刹那、脳裏を過ぎったのは朝のあの夢だった。
あの妙にリアルな、空想の産物としか思えない夢を。
伝説が始まると呟いた女性の声が蘇り、雅の目に映る透き通った冬の青空が女性の瞳の色と被った。
「……雅?」
雅が急に立ち止まったことに気付いたのだろう。歩くのを止め、怪訝な顔をして振り返った優也の声に、雅ははっと我に返った。
「あ、ごめん。……何か、ぼーっとしちゃった」
若干おかしい雅の様子に、優也は瞳に心配そうな色を滲ませた。
「珍しいな。そろそろ行かないと、まずいけど。……大丈夫か?」
普段、体調を崩しても中々口にしない妹を、優也は優也なりに心配しているし気にかけているのだ。それを知っているから、雅は安心させるように笑う。
「大丈夫。たぶん、ちょっと疲れてるんだよ。今日、金曜日だから土日は多少ゆっくり出来るし。行こう、遅刻しちゃう」
そして、雅は学校へと歩き出した。
その胸の内に違和感と、自分でもよく分からない予感めいたものを抱えたまま。