小学校に入学する時に買ってもらった勉強机に数学の問題集とノートを広げて、朱鳥はひたすら計算問題を解き続けていた。
 ベッドのサイドテーブルに置かれた目覚まし時計は、夜の九時を指している。いつもなら、焔薙ぎの任務についている時間だが、来週の水曜日から定期テストが三日間行われるため、現在必死に勉強中だ。
 もし、強力な焔魔が出現したら勉強をやめて退治に向わなければならないが、ここ数日は弱い焔魔の出現はあるものの、比較的平穏な日々が続いている。見回り程度ならば何も二人でする必要もないだろうと刀夜も言ってくれているので、その言葉に甘えて勉強に専念している。
 一応、焔魔の情報収集は欠かしてはいないが、今のところ焔魔がらみの事件は何もなさそうだ。それはとてもいいことだと、朱鳥は思う。焔薙ぎとしての経験を積みたいとは思うが、それよりも世間が平和な方がいいに決まっている。朱鳥だって勉強が捗って大助かりだ。
 こんな風に一生懸命勉強しているのには、深いわけがある。
 朱鳥は焔薙ぎである前に学生であるのだからその本分を果たせ、というのが祖母の方針のためだ。それすらも出来ない者に焔薙ぎなど務まるはずがない、ということらしい。赤点でも取ろうものなら、どんなことになるか。想像もしたくない。
 なので、朱鳥はもくもくと試験勉強を進めていた。勉強はそんなに嫌いではないので、こうして机に向かっていること自体は苦ではない。
 ひとつ問題を解き終えた朱鳥は、大きく息をついてシャープペンシルを置いた。どちらかというと国語や英語といった文系科目の方が得意で、数学はどちらかというと苦手分野だ。ずっと解き続けていると、何だか肩が凝る。左手で参考書の回答のページを開きながら右手でペンケースを漁り、赤いペンを取り出した。
「……あ〜! 間違ってる……」
 丸付けを始めたところ、三問目でバツがついてしまった。どこを間違えてしまったのかと回答と見比べていた朱鳥は、きゅっと眉を寄せた。
 使う公式は間違えていないのに、途中で計算ミスをしている。極力気を付けているつもりなのだが、試験などで時間に追われていると特に、こういう単純なケアレスミスが多くなってしまう。
「……う〜ん、やっぱり数学は苦手だぁ」
 解いた問題の丸付けも終わり、朱鳥はうーんと伸びをした。どの問題にどの公式を使うのかは間違えなかったので、あとはどれだけケアレスミスを防げるのかが問題だろう。
 そんなことを思いながら、棚の上に置いてあった電気ケトルに手を伸ばす。母親が親戚の結婚式の引き出物として貰ってきたギフトカタログから注文したものだ。
 そして、電気ケトルの隣に置いてあった紙コップ付きのインスタントコーヒーを準備する。飲むたびに紙コップがゴミとして出るのでエコではないかもしれないが、コップを洗う必要もなくすぐに使えるので、試験勉強中は特に重宝している。ひと息入れる時にちょうどいいのだ。
 こぽこぽと電気ケトルからお湯が沸き立つ音が聞こえる。沸騰したお湯をインスタントコーヒー入れた紙コップに注ぐと、コーヒーの香りが室内に漂う。
 朱鳥は紙コップを片手に鼻歌を歌いながら勉強机に戻ると、引き出しを開けた。引き出しには、チョコレートがひと箱入っている。
「やっぱりコーヒーにはチョコだよね〜」
 上機嫌でそんな風に呟きつつ、ごそごそと箱からチョコを取り出し、ひとかけ口に運ぶ。そしてとても幸せそうな顔をした。
 その時、ふと外から物音がしたような気がして、朱鳥は外に顔を向ける。
 窓にはカーテンがかかっており、この状態では外を伺うことは出来ない。
「……?」
 気のせいだろうかと思いながら、ホットコーヒーに息を吹きかけて口をつけていると、再び外から物音がした。今度は気のせいではない。
 よくよく耳を澄ましてみると、物音というよりは怒鳴り声のようだ。しかも、声に聴き覚えがあるような気がする。
 机にカップを置いた朱鳥は、外を伺ってみようとカーテンの端を掴んだ。その時だ。
「――……ではない!!」
 確かに聞き覚えのあるその声に、朱鳥は数度瞳を瞬かせる。そして、そっとカーテンをめくってみた。
「だから、くっつくでないとさっきから言っておるではないか!! 何度言えば分かるのだ! あっ、こらっ! すり寄るでない! 貴様、猫のくせに焔魔とはいえ鳥である自分に懐こうとはどういう了見だっ!! しかも自分は大鷲っ!! 猛禽類なのだぞっ!!」
 怒鳴り声の後、にゃ〜んと懐くような可愛らしい鳴き声が聞こえて、朱鳥は思わずがくりと肩を落とした。
 窓を開けるとその音に驚いたのか、猫がその場からものすごい勢いで逃げ出す。
 ああ、驚かせてごめんねにゃんこ。そう心の中で詫びながら、朱鳥は苦笑とともに怒鳴り声の主に声をかけた。
「そんなところで何してるの? レンちゃん」
 そう呼びかけると、屋根の上ではぁはぁと荒い息遣いで逃げ去った猫の背中を見つめていた大鷲は、ぐるりと朱鳥を振り返り、くわっと目を見開いた。
「……レンちゃんと呼ぶなと言っておろうがっ! この小娘っ!!」
 どんなに怒鳴られてもまったく腹が立たないのは、尊大な口調の割に動きがコミカルなせいだろうか。なんとなくギャップが面白くて、怒鳴られるのも楽しく感じてしまう。
 それにしても、ずっとこんなテンションで疲れないのかなぁと思いつつ、紅蓮の言葉は華麗にスルーしつつ、自分の部屋を指さす。
「せっかく来たんだし、寄っていく? レンちゃん」
「だからレンちゃんと呼ぶなと……っ!」
「入らないのね?」
 紅蓮の言葉に被せて窓を閉める動作をすれば、紅蓮が慌てたように翼をばっさばさとはためかせた。
「入らぬとは言っておらんではないかっ!!」
 人の話を聞かんか小娘! と言いながらトコトコと屋根の上を歩いてこちらに寄ってくる。飛んで来ればいいのに、と思いつつも朱鳥は紅蓮を室内に招き入れたのだった。

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